コメント・海外評
ほぼ完璧といえる構図、照明、美術が作品にもたらしかねぬ抽象性を、あらゆる生きた被写体が、そのつどまがまがしい具体性へと転化せしめるサスペンス。
ペドロ・コスタ監督の最大の野心作は、その野心を超えて、21世紀にふさわしい真の傑作へと昇華する。
一人の移民が記憶の迷路をさまようとき、暗い壁にはすべての移動せざるをえない者たちの苦難の影が映し出される。ペドロ・コスタの幻視力は身震いするほど現実的だ。
ペドロ・コスタの映画はよく見ている。彼は特別な才能を持つ監督だ。
ペドロ・コスタのように、
フリッツ・ラングや溝口のような画面を撮れる人は他にいない。
コスタは本当に偉大だと思う。彼の映画は美しく強力だ。
根無し草となった移民の男が、過去に囚われた病院をさまよう。そして廃墟となった場所の記憶と会話する。地獄への旅は、光と影の劇的な効果によって、恐ろしく美しい迷宮の空間として描かれている。
ペドロの映画について、ドキュメンタリーかフィクションかの問いかけは意味がない。
ベントゥーラの記憶、そしてそれを再現する肉体は、まさしくドキュメンタリーに違いはないのだから…
思考をすり抜け、眠気も掻き消す強靭なイメージが、ただひたすらに快感!ノスタルジーも最新CGも余計なシニシズムもない、まさに映画の最前衛。いま最もヤバく、黒いブツ。
これほど身近な話はない。ぼくは移民ではないけれど人間であるかぎりにおいて身近だ。身近なものを作ることほど楽しいことはない。それが証拠にこの映画には作る人びとの嬉々が全編にみなぎっている。
闇を闇のまま、語れないものを語らないまま、映らないものを映らないまま受け止める。ペドロ・コスタ監督の哲学を視覚化したような『ホース・マネー』の美しい映像が、頭から離れない。
なじみ深い登場人物が再び登場し、ポルトガルの激動の過去と不透明な未来を脳裏に焼き付ける。忘れがたく美しい作品だ。
カーネーション革命の時に、カーボ・ヴェルデ移民が直面した“苦難”という恐ろしい光景に結実していく、年老いた移民ヴェントゥーラのリアルでありながら想像された記憶を映し出す。現在もリスボンに住むヴェントゥーラは、70年代中盤の革命最中の体験を思い出し、同時に、今直面している苦難に立ち向かっている。
夜で始まり夜で終わる日々。譲る事のできない美という財産を誇示しながら、ほんの一握りの大切な人たちだけに、知られ、記憶され、生き、死んでいく人たちの映画だ。
夢のように、ゴージャスで不可解だ。映画の舞台は、魂が、それぞれの人生(そして犯した間違いや不運)に関して思いを巡らす、死後の世界かもしれないし、全く別の意味があるかもしれない。
パズルをはめていくような物語は、見る回数を重ねるごとに、暗示にかかる作用を強くさせる。映画を見る者にも、ヴェントゥーラ同様に、カタルシスに到達するための、狂気を経ることを強いるのだ。
リスボンの燃えるような風景の中に登場する、動かない聖職者のようなポーズを中心としたイメージの連続。それが神話詩的な世界へと広がっていく。
圧倒的な断絶を夢の形をとって描く。それは『ホース・マネー』が、夢を象徴しているということではなく、単純に、夢のロジックに特有の、分裂とそして隠されたコネクションの連鎖を、利用しているということだ。
ペドロ・コスタ独特の絵画的で瞑想的な『ホース・マネー』は、個人的あるいは歴史的な側面を持つトラウマとなっている体験を白昼夢として、再形成した。
想像力豊かなマスターワーク『ホース・マネー』は、リスボンに住むカーボ・ヴェルデ移民、年老いたヴェントゥーラのリアル、想像、悪夢のような記憶の中へと向かう、見る者の心を奪う旅(オデッセイ)だ。
自己を発見し、忘却される恐れのある人たちを記憶しようという心動かされる行為であり、そして鋭くも美しいモダン・シネマの作品である。
『ホース・マネー』で起きている様々な出来事が、明確に提示されることはないかもしれない。しかしペドロ・コスタによって、怒りと喪失を抱えながら、貧しく周縁に追いやられた人たちの孤独とともに、崩れゆく世界へと私たちが足を踏み入れていることだけは確かだ。