映画の背景『ホース・マネー』のバックグランド

移民たちの街、フォンタイーニャス地区

フォンタイーニャス地区はポルトガル、リスボンにあったスラム街。そこは多くのアフリカ系の住民が住んだ、ゲットーとも言える移民街。ペドロ・コスタは、『骨』(1997)以降、『ヴァンダの部屋』(2000)、『コロッサル・ユース』(2006)とこの地区を舞台に映画製作を行っている。

「大航海時代」。香辛料、金、ダイヤなどを求めアジア、アフリカ、ラテンアメリカなど世界各地に貿易活動を行っていたポルトガル。
フォンタイーニャス地区には、多くのアフリカ系の人々が住んでいた。そのアフリカにおけるポルトガル語圏の形成には、15世紀から19世紀まで続いた奴隷貿易の歴史と大きく重なっている。カーボ・ヴェルデ、サントメ・プリンシペ、ギニア・ビサウ、アンゴラ、モザンビークなどの大西洋・インド洋に面する国々が、奴隷貿易のための植民地として、ポルトガルに収奪されることになる。その後、1970年代には、アフリカ諸国は、独立を勝ち取るが、ポルトガルによる支配の歴史は、現在に至るまで大きな禍根を残している。資源を持たないアフリカ諸国からは、多くの移民、出稼ぎ労働者を生みだす事になった。旧支配国のポルトガルも 例外ではなく、カーボ・ヴェルデ、アンゴラなどからの移民が押し寄せている。

ペドロ・コスタによると、フォンタイーニャス地区の住民の80%が、カーボ・ヴェルデ、アンゴラ、モザンビークからの移民である。フォンタイーニャス地区はリスボンのはずれに位置しており、近くには空港があり、広大な農場の一部だと、コスタは語っている。
1994年、ペドロ・コスタは、アフリカのカーボ・ヴェルデを舞台とした『溶岩の家』を製作する。その撮影後、カーボ・ヴェルデの人達から、リスボンにいる家族のためにと多くの手紙や品物を預かった。そして、それらを持って、初めてフォンタイーニャス地区を訪れることになる。ペドロ・コスタは「行き先が見えてきた時、もう映画にある家と中にいた人々を見つけた。」と 語っている。それが1997年の『骨』だった。フォンタイーニャス地区を舞台に、スラム街に生きる若者たちの生を描いた作品『骨』で、ペドロ・コスタは、ヴァンダと出会う。『骨』の撮影のため7ヶ月間を、そこで過ごしたコスタは、ヴァンダとその家族を捉えるための作品を構想した。
『ヴァンダの部屋』製作時にフォンタイーニャス地区は破壊されつつあった。それは、街全体の再開発によるものだった。『ヴァンダの部屋』の撮影後、フォンタイーニャス地区には、集合住宅が建ち、廃墟やバラック同然の家々に住んでいた 住民たちは、そこに移されたようだ。しかし、コンクリートで塗り固められた密室性が増した集合住宅は、住民たちのコミュニケーションを遮断し、これまで以上の麻薬の汚染と生活環境の悪化を招いていると伝え聞いている。このあたりの一端は『コロッサル・ユース』にも描かれている。

カーネーション革命 (Revolução dos Cravos)※1

1974年にポルトガルで発生した軍事クーデター。この革命はヨーロッパで最も長い独裁体制『エスタド・ノヴォ(Estado Novo:新国家)』をほとんど無血に終わらせた。カーネーションが革命のシンボルとなったのでこのように呼ばれる。別名「4月25日(25 de Abril)」、「リスボンの春」。

・背景

1933年に成立したアントニオ・サラザールによる独裁体制は40年以上続いたが、1961年以来植民地のアンゴラ、モザンビーク、ギニアビサウではソビエト連邦・キューバに支援された独立革命軍との植民地戦争が続いていたため戦費が財政を圧迫し、1950年代から60年代にかけて重工業化が推進されたにもかかわらず経済状況が悪化、国民が生活苦のためにフランスや旧西ドイツ等のヨーロッパ諸国に流出するなどした結果、ポルトガルの地位は西ヨーロッパ最貧国と呼ばれるまでに転落した。
1968年にサラザールが病に倒れ、後継のマルセロ・カエターノは当初民主化を進める意思を見せたものの、すぐに独裁体制を維持する姿勢を示した。主としてポルトガル領ギニアで泥沼の植民地戦争に服務し、危機感を抱いた国軍の青年将校たちは、1973年9月に「大尉運動」を結成し、1974年3月に「国軍運動(MFA)」に改組され、アントニオ・デ・スピノラ大将を担いで体制変革を目指すようになった。

・決起

1974年4月25日早朝、オテロ・デ・カルヴァーリョ大尉に指揮されたMFAは首都リスボンで決起し、市内の要所を占拠した。共和国警備隊本部に包囲されたカエターノ首相は為す術もなく投降し、スピノラ大将に権力を委譲した。流血はほとんどない無血革命だった。カエターノとアメリコ・トマス大統領は翌26日の飛行機でマデイラ島に移送された。MFAを中核とする救国軍事評議会が結成され、スピノラ大将は近く臨時政府を組織すると発表した。こうして革命の成功を知ったリスボンの街角は花束で飾られ、市民たちはカーネーションを手に兵士たちと交歓した。革命軍兵士たちは銃口にカーネーションの花を挿した(現在ポルトガルでは4月25日は「自由の日」として国民の祝日となっている)。

・クーデターの流れ

1974年5月15日、臨時政府が成立し、スピノラ大将が臨時大統領に就任した。しかし実際に革命を主導したMFAとの溝が深まり、9月30日スピノラは大統領を辞任、コスタ・ゴメス将軍が大統領に就任して中立的な政権運営を行った。
1975年3月11日権力を奪回しようとする保守派のスピノラはクーデターを起こしたが失敗、スペインに亡命した。直ちに共産党と結んだMFA左派の将校達によって革命評議会体制が確立され、臨時政府には社会党や共産党の人士も参加したが、主導権はMFAにあり、主要産業の国有化や農地改革など社会主義的な政策を取った。
1975年から1976年までの各派間の権力闘争は激烈を極め、当初はMFAを主導し共産党と結んだオテロや革命初期の首相ゴンサウヴェス、そして共産党書記長のクニャルが主導権を握り、この時期に大資本の国有化や農地改革が行われたが、1975年の議会選挙で社会党が第一党になると社会党と共産党の対立が激化し、最終的に中道左派路線を掲げる社会党が勝利してMFA左派と共産党勢力は1975年11月までに追放された。1976年には総選挙と大統領直接選挙が実施され、MFA穏健派出身のアントニオ・エアネス大将が大統領に就任して革命はようやく終結した。

カーボ・ヴェルデ共和国(República de Cabo Verde)※2

カーボ・ヴェルデ共和国、通称カーボ・ヴェルデは、大西洋の中央、北アフリカの西沖合いのマカロネシアに位置するバルラヴェント諸島とソタヴェント諸島からなる共和制の国家である。首都はプライア。

カーボ・ヴェルデ諸島は、18世紀終盤以降経験する頻発する旱魃・飢餓と、奴隷貿易の衰退により、その繁栄は緩やかに失われた。しかし、大西洋奴隷貿易における中央航路の位置は、カーボ・ヴェルデを理想的な補給港たらしめていたことから、19世紀には、サン・ヴィセンテ島にあるミンデロはその素晴らしい港により、重要な商業港となっていった。その一方で同じく19世紀には断続的な旱魃や、ポルトガルからもたらされた大土地所有制度の弊害などもあって、農業で暮らして行けなくなったカーボ・ヴェルデ人の外国移住が始まり、特に多くがアメリカ合衆国へ向かった島国であり、15世紀から1975年までポルトガル領であった。独立に際してアフリカ大陸部のギニアビサウと連邦を形成する計画があったが、1980年の同国で発生したクーデターによって頓挫し、現在に至っている。かつてはポルトガルの重要な植民地であったが、史跡としてはフランシス・ドレークによって破壊された町シダーデ・ヴェーリャが残っている。ポルトガル語諸国共同体、ポルトガル語公用語アフリカ諸国の加盟国。

1951年にポルトガルのアントニオ・サラザール政権は、カーボ・ヴェルデを含む各植民地のナショナリズムを緩和させるために、その法的地位を植民地から海外行政地域に変更した。しかし1956年、カーボ・ヴェルデ人のアミルカル・カブラルとラファエル・バルボーザは、ひそかにポルトガル領ギニア(現ギニアビサウ)で、ポルトガル領ギニアとカーボ・ヴェルデの独立のためのギニア・カーボ・ヴェルデ独立アフリカ党 (PAIGC)を結成した。PAIGCはカーボ・ヴェルデとポルトガル領ギニアの経済、社会、政治状態の向上を求め、両国の独立運動の基礎を成した。PAIGCは1960年にその本部をギニア共和国の首都コナクリに移し、1963年からポルトガルに対する武装抵抗を開始した(ギニアビサウ独立戦争)。武装闘争は結果的に10,000人のソビエト連邦やキューバのサポートを受けたPAIGCの兵士と、35,000人のポルトガル人及びアフリカ人の軍隊による戦争になった。

1972年までには、ポルトガル軍が駐留していたにもかかわらず、PAIGCはポルトガル領ギニアの3/4を制圧していたが、カーボ・ヴェルデは地理的に隔絶しており物流がさほど無いことから、PAIGCはカーボ・ヴェルデのポルトガル支配を破壊しようとはしなかった。しかし、1974年4月25日にポルトガルで起きたカーネーション革命を受け、PAIGCはカーボ・ヴェルデでも活発な政治運動となった。

※1、※2はwikipediaより