映画『テザ 慟哭の大地』公式サイト - エチオピア

エチオピア現代史と『テザ 慟哭の大地』

眞城百華(津田塾大学 国際関係研究所 研究員)

●はじめに

 本映画は、ディアスポラの視線から故郷エチオピアにおける激動の30年を描き出している。エチオピア革命前にドイツに留学したエチオピア人青年が母国の変革を訴える運動に参画する。彼らの運動は1974年のエチオピア革命を引き起こす遠因となり、革命により十数世紀にわたり続いてきたエチオピア帝国は崩壊する。革命後の新政権樹立に期待をはせて帰国を果たしたものの、母国は彼が想像したものとは大きく異なる国家体制になっていた。エチオピア人ディアスポラは、母国においても知識人として特別な扱いを受け、またヨーロッパにおいても異邦人として生きていかざるを得ない境遇にあった。彼らがたどった運命はエチオピア現代史を理解するために非常に重要な視点の一つである。

●エチオピアのルーツ

 エチオピアは伝説のシバの女王が君臨した国に起源をもつと考えられてきた。史料から、現在のエチオピアのルーツとされるアクスム帝国は1世紀頃から栄え、4世紀にはキリスト教を国教化した。エチオピア北部高地を中心に栄えた国家は、19世紀後半の列強によるアフリカ分割の中で領土を拡大し、1896年のアドワの戦いにおいてイタリアの植民地化の野望を砕いて独立を維持した。アフリカにおいて独立を維持した2つの国のうちの1つである。1935から41年にかけてイタリアのムッソリーニ政権による侵略と支配を経験した際、ハイレ・セラシエ皇帝が海外に亡命した後もエチオピア各地でイタリア支配に対する抵抗は続いた。アンベルブルの祖父や父親の世代は対伊抵抗を行った世代であり、彼らは1941年に皇帝がエチオピアに復帰した際にはイタリア軍の掃討やエチオピア国家の再建においても重要な役割を果たした。

●エチオピア帝政期の政治体制と政治変動

 侵略から復興したエチオピア帝国は、国家の発展に寄与する人材を育成するために若者を積極的に海外に留学させた。エチオピアの有能な青年たちはヨーロッパや北米、中東などに留学すると、学問を学ぶだけではなく新たな思想をエチオピアにもたらした。北米とヨーロッパにおいてエチオピア人の学生運動が組織され、エチオピア本国の学生運動と連携を図った。

1930年から皇位にあるハイレ・セラシエ皇帝を頂点としたエチオピア帝国の政治体制に対する不満が1950年代後半から徐々に顕在化し始めた。エチオピア帝国においては、皇帝ならびに皇帝を支える貴族層や一部の有力者に権力が集中した。一部の貴族や広大な土地を所有する貴族や地主と貧農の間の階級問題は様々な政策実施によっても解消されなかった。
 またエチオピア帝国の基盤をなすといわれた北部高地のアムハラ・ティグライ社会の政治体制、社会制度、宗教、言語が南部の諸民族に対して強制され、国内の民族間の格差と分断を生んだ。飢饉の多発によって農村の生活も危機に瀕していた。こうした社会不安を背景として徐々に帝政に対する批判が高まった。1960年のクーデターは失敗に終わったが、首都の学生運動は活発化した。欧米のエチオピア人留学生の学生運動は首都アディスアベバにおける学生運動と連携し、帝政に対する批判を積極的に展開した。
 1960年代から70年代初頭にかけてのエチオピアでは、エリトリアの解放運動をはじめとして地域や民族の不満が表出し、他方で都市部では階級制度や民族問題を争点とする学生運動、労働者、軍部の活動が活発化した。

●エチオピア革命とその影響

 1974年のエチオピア革命は、国内の多くの矛盾が複合的に絡まりあって生じた。軍部によってハイレ・セラシエ皇帝が廃位させられ、十数世紀にわたりエチオピアを支配してきた皇帝を頂点とした政治体制が崩壊した。帝政に挑戦してきた勢力にとって華々しい革命の達成であった。
 悲願の革命を達成したものの、その後のエチオピア政治はさらに混迷を深めた。新政権の運営において軍部が台頭し、軍部は学生運動や知識人が主張する社会主義思想を取り入れ、社会主義国家の建設を進めた。メンギスツ・ハイレ・マリアムを首班とする軍事政権は徐々に独裁の色合いを濃くしていった。エチオピアを含む北東アフリカにおける冷戦の構図も深まり、軍事政権はソ連との関係を深めていく。
 次第に軍部の政権運営に対して知識人、学生から不満が高じた。軍部は政権運営の理念を支えるために一部の知識人を政権に残し、他方で軍部に抵抗する諸勢力の弾圧に踏み切った。特に軍部は知識人や学生を標的として、彼らの逮捕、拘禁のみならず殺害に及んだ。レッド・テラーと呼ばれる軍部による粛清により約50万人もの学生、知識人が殺害されたと報告されている。当時、軍部に連れ去られた知識人や学生たちの行方は分からず、家族は軍部の統制の中で彼らの行方を探し求めた。軍事政権が倒れるまでの20年近く、彼らが軍部により殺害されて埋められたことは隠蔽されていた。

●内戦の時代

 軍事政権の強硬な政権運営に対する批判や反対が高まり、首都のみならず各地で反政府勢力が結成された。1960年代からエチオピアからの独立を求めて解放運動を展開したエリトリアも軍事政権との対立を深め、さらに75年前後から反政府活動を展開したティグライ人民解放戦線(TPLF)やオロモ解放戦線(OLF)など多くの反政府勢力が乱立した。国内各地で戦闘が繰り広げられ、エチオピアは全土で内戦状態に陥った。
 アンベルブルが帰国してアディスアベバで勤務した頃、軍部は国内各地の多くの反政府勢力と戦いながら首都における基盤強化を狙い「革命」の喧伝に執心した。国内の移動、集会、言論、出版の自由などが厳しく規制された。「革命」思想に共鳴して帰国したディアスポラは理想と現実の狭間で苦悩することとなる。
 友人を失い東ドイツに戻ったアンベルブルであったが東ドイツのディアスポラ・コミュニティもまた前と同じではありえなかった。当時の北米やヨーロッパには軍事政権に反対して海外に亡命したエチオピア人も多くおり、彼らの中には本国の反政府勢力の支援を積極的に行うものもいた。軍事政権下で働くディアスポラと亡命者の間には大きな隔たりが生じ、国内の分断はディアスポラ・コミュニティの中にも新たな対立を生んでいった。
 冷戦の雪解け間近の東ドイツにおいて人種差別に起因する不幸な事件がアンベルブルを襲う。心身ともに傷を負った彼がやっとの思いで帰り着いた故郷も、深い傷を内包していた。母親との再会や故郷への帰還が一時の休息を与えてくれたのも束の間、隣人や兄との間に生じた価値観の相違が日常の中で顕在化する。また、逃れてきたはずの政治問題は故郷の村にも影を落としていた。1980年代後半には反政府勢力の勢いがまし、軍は地方で徐々に退却を余儀なくされはじめた。危機感を抱いた軍事政権は兵力増員のために各地で強制的に若者を徴兵した。他方で、反政府勢力も支持者や同志を獲得するために農村で積極的に活動を展開した。軍事政権末期には農村に至るまで国中が新たな政争に巻き込まれていった。
 冷戦の崩壊と同時進行する形で、エチオピア政治も新たな局面を迎えた。1991年に反政府勢力の連合であるエチオピア人民革命民主戦線(EPRDF)が軍事政権を倒し、暫定政権期を経て1995年に新政権を樹立した。

●おわりに

 『テザ 慟哭の大地』は、激動のエチオピアの政変の最も激しい部分をあえて直接的に取り上げていないように感じる。1974年の革命前の大飢饉、軍事政権によるレッド・テラー、国内各地で繰り広げられた激しい内戦、世界中の耳目を集めた1984-85年の大飢饉など、同時代のエチオピアを語る際に最も注目された大事件は遠景にある。あくまでディアスポラとなった一人のエチオピア人の視点から、政変、軍事政権の支配、友人との関係、留学先の人間関係、故郷と家族との関係が丁寧にたどられ、その中で激しい変動の時代が映し出されている。
 エチオピアにおける内戦終結からちょうど20年になる今年、『テザ 慟哭の大地』はディアスポラの境遇の困難、政争や内戦の生々しさ、いまだに残る多くの分断を静かにとらえ直す機会を与えてくれるだろう。

2011-04-21 18.38.00.tif