悪夢の果てに朝露は宿るか|上野昂志(映画評論家)
冒頭の、病院の廊下をストレッチャーで運ばれながら、「死にたくない」と呻く包帯だらけの男の映像は、以後も、主人公を脅かす悪夢として繰り返し出てくるが、そんな悪夢が、この映画の基調を成す一方に、『テザ』というタイトルが示すイメージがある。
それは、村の若者たちが輪になって、手に持った棒でリズミカルに地面をつつきながらやる謎かけ遊びに出てくる。「出かけてる間に消えたのは?」と誰かが問い、「雨」、「愛かな」、「幼少期」と答えた最後に出た「朝露」こそ、「テザ」なのだ。もっとも、アムハラ語で「テザ」とは、「朝露」と「幼少期」の二つの意味があるというから、これは、謎かけする若者たちの前に出てくる主人公の幼少期のイメージにもつながっているのだろう。
いずれにせよ、主人公アンベルブルの歩みを通して、1970年代から20世紀末に至るエチオピアの歴史を描いたともいえる『テザ 慟哭の大地』は、あたかもアンベルブルを脅かす悪夢のようにしてありながら、にもかかわらず、その悪夢の果てには、「出かけてる間に消え」てしまうほどはかないものでありながら、翌朝になれば、やはり木々の葉末に宿る朝露にも似た生の輝きを見せるのである。
物語は、1990年代にアンベルブルが故郷の村に帰ってくるところから始まる。すなわち、それが物語の現在時である。息子の帰還を待ちかねていた老いたる母と抱き合うアンベルブル。彼の片足は義足で、脚を引きずるようにして歩く。その脚を失ったときの記憶が、悪夢として彼を脅かす。だが、寝覚めに訪れる悪夢ばかりでなく、夢や記憶が、彼がそれまで歩んできた人生と、1970年代以降のエチオピアの歴史を蘇らせるというのが、この映画の基本構造である。
1970年代、それは、アンベルブルたちがまだ希望に燃えていた時代である。画中に、エチオピア最後の皇帝ハイレ・セラシエ一世が、1974年9月に廃位するときのニュース映像が流れるシーンがあるが、留学先のケルンでそれを見たアンベルブルとその仲間たちは、互いに肩を叩き喜びあう。イタリアからの独立を勝ち取ったのは、彼らの父の世代だが、その後も続いた帝政が、このとき、ようやく終わりを告げたのだ。地主階級による搾取は続いていたが(同監督が『三千年の収穫』[1976]で描いたような)、それだけになお、革命の夢は、故国の社会変革を遂行しようという想いは、より強くアンベルブルたちの心を捉えていたのだ。
70年代のケルンで、アンベルブルと変革の志を共有するテスファエは、白人女性と結ばれ、彼女は妊娠する。それを誇らしげに告げる女性を、カメルーン出身のカサンドラという女性が非難する。この社会で、黒人の血を承けた人間が、どれほど差別されるかわかっているのか、と。ここで顕在化した差別の問題は、やがてアンベルブル自身に及ぶことになるが、それも人種差別だけでなく、さまざまなレベルの差別として、この映画のもう一つの動因となる。そして、カサンドラは、アンベルブルと愛し合い、妊娠するが中絶して姿を消す。
これは、あとでも少し触れるが、『テザ 慟哭の大地』は、カサンドラをはじめとする女性のさまざまな姿が、映画に独特にフェミニンな陰影を与えることになる。 ともあれ、恋愛をも含めて、アンベルブルたちにとって、1970年代のケルンは希望に溢れていた。それが失望へ、そして失望から絶望へと変わるのが、1980年代のアディスアベバなのだ。
帝政を廃止したエチオピアは、社会主義国家建設を宣言し、1977年2月に、メンギスツが臨時軍事行政評議会の議長になってから、そのもとで数十万人が粛正されるような軍事独裁政治を敢行したといわれる。その実際については、わたしはまったく無知なのだが、この映画で、娘に「革命」という名を付けた労働者が出てきて、テスファエやアンベルブルのような知識人に敵意を燃やすシーンなどを見ると、スターリン時代のソ連から、中国の文化大革命や、カンボジアのクメール・ルージュなど、さまざまに連想が及ぶ。ここでは、「革命」を呼号する彼らに従わないアンベルブルは、評議会で転向させられ、早くからアディスアベバの病院で働いていたテスファエは虐殺されてしまう。いわば、1970年代にケルンの留学先で夢見た革命の無惨な結末に直面するというわけだ。
その意味で、これは、エチオピアのみならず、20世紀に変革を渇望した多くの知識人が味わった幻滅や絶望に重なるといってもいいだろう。しかし、アンベルブルは、ドイツで亡命状態になっているかつての仲間たちのように、そこに留まっているわけにはいかない。だから、彼は、1990年代の故国の村に戻ってくる。
だが、そこで彼が見たものは・・?
母は、老いたとはいえ、子どもの頃と同じように彼を慈しみ、何かとかばってくれる。しかし、兄は、外国に留学し、長年、村を離れていながら、長男の自分より母に愛されているかに見えるアンベルブルに我慢がならない。村の長老たちも、義足を引きずりながら歩き、村のしきたりや権威を無視するようなアンベルブルが気に入らない。つまり、その限りでは、帝政は廃されたものの、村は、彼が出る前とほとんど変わっていないのだ。そのなかで、昔と変わらずに彼を慰めるものがあるとしたら、豊かな水をはらみ、対岸から上る朝日にその波頭をきらめかす湖ぐらいである。
そのように、いっけん変わらぬ村にあって、決定的に変わったのは、軍隊による子ども狩りである。これは、エリトリアの独立をめぐる戦争によるのであろうか? エチオピア政府軍の軍隊によるものか、反政府側の軍隊によるものか、どちらとも知れぬが、軍隊が兵士として徴発するために、子ども狩りをするのだ。それから逃れるために、子どもたちは洞窟に隠れる。だが、母の農作業を手伝おうとして出てきて、兵士に捕まったり、逃げ出して撃ち殺されたりする。そのようなおぞましい事態に対して、アンベルブルがまったく無力で、ただ見るしかない、というところに、革命と戦争の20世紀における、大方の知識人の運命がリアルに映し出されているといっていいだろう。
では、アンベルブルに希望はないのか? 「出かけてる間に消えた」朝露が、再び朝日に輝く時はないのか? それが、この映画が最後に、主人公とともに、それを見ているわれわれにも投げかけた問いであろう。
そこで大きく浮上してくるのが、女性と子どもの存在である。
まずは、アンベルブルの母にかばわれ、彼女を支えてもいるアザヌという女性だ。彼女は、自分に子どもを産ませた男が別の女と結婚したことに絶望し、子どもを投げ殺してしまったために、彼女自身の心を殺すと同時に、村人たちから「魔女」として憎まれ、排除されている。アンベルブルは、そんな彼女を愛するようになり、アザヌはやがて身籠もる。ケルンで出会ったカサンドラに、彼を待ち続けた母、そして、このアザヌ。いずれも、迫害を受けながら、人への愛を失わずにいる女たちの系譜がここにつながる。アンベルブルがそんなアザヌと共に生き、その子を育てること、それは、悪夢のような現実を経験してきた彼にとって、新たに生まれた希望であろう。そして彼は、村から姿を消した教師の代わりに教壇に立ち、幼い子どもたちに、算数を教えるのである。朝露は、今日も、葉末にその生を宿すのだ。
映画監督にとってエチオピアが抱える苦闘は、自分のものでもある|ラリー・ローター (NY Times)
2010年3月30日
ハイレ・ゲリマがハワード大学で教える授業の一つに「映画と社会変革」がある。1970年代からアメリカに住み、自ら自己亡命者と呼ぶエチオピア人監督・脚本家のゲリマ氏にとって、この命題は、単なる学術的な主題ではない。アフリカおよびアフリカ系アメリカ人をテーマに映画をつくり続ける動機でもあるのだ。
ニューヨークのリンカーン・プラザ・シネマで金曜日から上映される『テザ 慟哭の大地』(以下、『テザ』)は、監督の母国語アムハラ語で「朝露」を意味し、彼のこれまでの作品中、最も自伝的な映画だ。若く知的で理想に燃えるアンベルブルの苦渋の満ちた人生を追う。彼の生まれ育った小さな村から、欧州での医学生時代、エチオピア帰国時の1974年には皇帝ハイレ・セラシエ一世を転覆させたマルクス主義革命の犠牲となり、そして西ドイツへ亡命し、人種差別にさらされる。
「より良い社会を求め、貧しい者や抑圧される人々のために立ち上がろう、と純粋に願っていた世代に属しています。結局この世代は、光を失い、道に迷い、人間性に背を向け、理想とはかけ離れたすがたになってしまった。」64歳のゲリマ氏は、汎アフリカ書店“サンコファ”でのインタビューでそう語った。ここは、文化活動の拠点、そしてカフェでもあり、ハワード大学の向かいにある。彼の映画会社の製作事務所も兼ねている。「私にとって、この映画の本質は、ディスプレイスメント、人間が他の地へ移植されることについてで、私自身の心深くに共振するテーマです。」
他の地に移動する、ディスローケーションの実感は、彼の映画の中では、文字通り、また時には比喩的に現れる。『Sankofa』(1993年)では、アフリカに撮影で来たアメリカの黒人ファッションモデルが、18世紀にタイムスリップし、西インド諸島のプランテーションの奴隷となる。また一方で、『Ashes and Embers』(1982年)では、アフリカ系アメリカ人兵士たちが、ヴェトナムから貧困と絶望にあえぐアメリカの都市に戻った時の失望を見つめる。
ゲリマ氏は1967年に、シカゴのグッドマン演劇学校で学ぶために、初めてアメリカの地を踏んだ。エチオピアで活動していたピースコアの先生が、彼の才能に感銘し、入学の手配をしたのだった。しかし、当時のアメリカの人種の諸々の問題に驚くばかりで、当初は、生活のために芝や庭の手入れをしていた白人のみならず、アフリカ系アメリカ人とも疎遠に感じていた。
「アメリカのアフリカ系アメリカ人ほどの苦難を私は経験しなかったし、そこで直面した人種差別は、鼻血を出してしまったほどのショックだった」と彼は振り返る。「かといって、アメリカの黒人になりたいわけでもなく、彼らの状況に自分を重ねたかったわけでもない。彼らは奴隷なのであって、私は違っていた。彼らはアフリカから来たというよりも、プランテーションで芽生えた全く別の種なのだと感じた。お互いは、別次元の産物なのだと。」
オファーされた役の数々に不満を持ち、黒人の役は「公園のベンチか街灯のような存在」だった、と言うゲリマ氏はUCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)に編入した。ほどなくして俳優として賞を受賞し、汎アフリカ・ブラックパワー運動ともつながっていく。グラウベル・ローシャ、フェルナンド・E・ソラナス、ミゲル・リッティンら、ラテンアメリカの監督たちの映画を初めて見たときに衝撃を受け、専攻を映画に変えた。これらの映画は、彼が描く物語も、良く見慣れたハリウッド映画と「同じように重要で、正当なんだ」ということを気づかせてくれたと言う。
『羊屠殺者』や『To Sleep with Anger』などを監督した同級生で友人のチャールズ・バーネットは、当時の彼のことをこう評する。「既に学生の時から何をしたいかが明確で、率直に発言し、強い意志を持って、有色人種とその闘争への共鳴と共に、積極的に関わっていた。彼には独自の作法があって、エネルギッシュかつ動的で、彼の映画からもそれが感じられる」と。
ゲリマ氏は、1970年代なかばに『三千年の収穫』で、初めて注目された。封建制度下で、生き延びようと苦労するエチオピアの百姓一家。皇帝ハイレ・セラシエ一世の支配が崩れ始めた頃に撮影された。「ある意味では、」とバーネット氏は続ける。「村の生活に焦点をあて、エチオピアの歴史への関心といった『テザ』のルーツがそこに見て取れる。」
しかし、この映画は、ハイレ・セラシエに取って代わった共産主義軍事政権のデルグ[Derg]とゲルマ氏の間に問題を引き起こした。彼の映画を「エチオピア人民の所有物だ」と新政権は宣言し、政府が彼の作品を「管轄」することに同意しなければ、故郷であるにも関わらずエチオピアでの製作を禁じるという。
「そう言われた時、早く飛行機に飛び乗って、国から出たかった。私の自由がもうそこにはないことが分かったからね。」ゲリマは続けて、「そのままいたら死んでしまっていた。私はドグマってものは、性に合わない。例えドグマが自分自身の産物だとしてもね。だって、次の日起きれば、自分でそれを裏切っているから。」
ヴィジャイ・イェールとジョルガ・メスフンによる、刺激的なジャズベースのサントラが流れる『テザ』を、ゲリマ氏は、情熱がこもっているけれども「不完全」な映画だと称する。資金調達が困難だったために、完成に10年以上を要した。加えて、エチオピアの田舎で撮影されたシーンには、土地の農民たちが多数出演しているが、撮影クルーの大部分が欧米人だったため、製作現場での問題には事欠かなかった。
「機材を現場に運ぶことさえ容易ではなく、今でも忘れられない」と製作を手伝うゲリマ氏の妹のソロメは振り返る。「電気は、村の発電機を使っていたが、撮影中に停止することもしばしばあり、その度に交渉しなければならなかった。お金以上に、忍耐が必要とされた。」
アンベルブルを演じる29歳のエチオピア系アメリカ人、アーロン・アレフェは、撮影現場のことを「通過儀礼であり、人生を変えてしまう経験」と評した。LAで生まれたアレフェ氏は、子ども時代にアディスアベバに移り住み、大学進学時、カリフォルニアに戻って来た。それでも、エチオピア北西部の洞窟が点在する地域での撮影では、驚くことばかりだった。
「周りの地域の人たちが、撮影を見に来て、何をしているか聞いてくるんだ」とアレフェ氏が振り返る。「映画をつくっているんだ」というと、「映画って何だ」と来る。「テレビで見るような話だよ」というと、「テレビって何だ」とね。「ラジオで聞く話の映像版だよ」と言った時に、ようやく、何人かは理解してくれたんだ。」
およそ去年一年間かけて『テザ』は、欧州とアフリカの映画祭でお披露目され、ロッテルダム、ヴェネチア、カルタゴ(チュニジア)、ワガドゥグ(ブキナファソ)などの映画祭で賞を穫った。
ハワード大学の同僚であり、「Twenty-Five Black African Filmmakers[ブラック・アフリカンの映画監督25人]」(1988年)の著者でもある、Françoise Pfaffは、『テザ』が撮影された言語がアフリカ映画の主流言語である英語でもフランス語でもなかったにも関わらず、ワガドゥグ全アフリカ映画祭(フェスパコ)で初のエチオピア人監督としてゲリマ氏がグランプリを獲った。それは重要な功績なのだと、前述している。
「政治に関わる際の闘志と誠実さ、そして彼の才能と作品群、この双方の面で、彼はとても尊敬されています」とゲリマ氏を評する。「『テザ』では、アフリカの風景の偉容、その光と影を、真に捉え、作品に多大なる力と美を宿らせた。」
「もう飢餓のエチオピアではない。・・・ディスプレイスメントと喪失のエチオピアであって、そこに普遍性があることに、ようやくホッとできるのだ。」
エチオピア、エグザイル、喪失|マイケル・オサリヴァン(Washington Post)
2009年9月18日
ある種の不安を抱きつつ『テザ 慟哭の大地』(以下、『テザ』)を見に来る観客がいることは、想像に難くない。ワシントンD.C.在住の映画監督ハイレ・ゲリマによる、このエチオピアを舞台にしたアムハラ語の劇映画は、観客に予習をしてこい、と言ってるようなものだ。何しろ、メンギスツ・ハイレ・マリアム独裁政権下の複雑な政治と内戦の時代であった1974年から1980年代、そして1990年の間を映画の中で跳び回る。だから歴史が苦手な人たちが抱く多少の不安は確かに理解できる。理解できるのだが、実は心配など無用なのだ。
なぜかというと、『テザ』は、政治に関する映画では全くないからだ。もちろん、多少なりとも20世紀後半のエチオピアの歴史背景を知っているに越したことはない。例えば、イタリアの侵略には、戦いを挑み、植民地化を免れるが、結果としては、1930年から1974年まで、皇帝ハイレ・セラシエ一世の支配とそれによる階級格差が続いたこと。しかし、実際に観客をひき込ませるのは、ある男の喪失と和解についての力強い個人の物語なのだ。
『テザ』は1990年から始まるが、主には一連のフラッシュバックによって映画は進む。最初のフラッシュバックは、1974年のマルクス主義の軍事政権によるセラシエの失脚、そして、メンギスツの力による政権の樹立。しかし映画の中心は物腰の柔らかいヒーロー、アンベルブル(アーロン・アレフェが演じる)で、1990年に生まれ育った村に戻ることから物語が進む。医者となった彼は白髪まじりのひげを生やし、学位と1本足が足りない体と正体不明の悪夢を携えて戻って来た。
『テザ』は、彼がこうなった所以の物語だ。
現代エチオピアは、「私にとっての悪夢だ」と言うエチオピア生まれのゲリマ。彼の代役とでも言うべきアンベルブルは1970年代初頭、ドイツで医学を学ぶために母国を離れる。当時、多くの若い男たちがそうであったように、社会主義者の彼もセラシエの失脚を待ち望んでいた。ただ肝心なのは、彼が理想家ということだ。彼の夢は、いつの日かエチオピアへ帰り、友人の同級生テスファエ(アビユ・テドラ)と共に、母国のあらゆる病気の撲滅のために尽くすこと。
言うは易し行うは難し。
二人がエチオピアに帰国する頃には、革命のヒーローだったメンギスツも残忍な殺人者となっていた。内戦状態の母国では、政府側も反政府勢力も、少年たちを兵士として強制徴用し、逃げようとする者には、発砲した。異議を唱える者は、投獄、あるいは最悪の場合、銃で封じられた。
そんな空気の中、アンベルブルは故郷にいても、よそ者だと感じていた。彼はドイツへ戻り、テスファエの悪い知らせを、テスファエの妻と息子に伝えようとするが失敗に終わる。差別主義者のギャングからの被害にあい、黒人は西洋でも、望まれない存在なのだとそこでも身を以て知る。
つまるところ、彼には国がないのだ。
フィクションではあるが、『テザ』には多くの地理的・歴史的な特定性が含まれている。ゲリマが、今あるエチオピアの物語を語ろうとしていることは明白だが、また単にエチオピアだけのことではない。
生まれ育った場所に帰ると、そのような場所はなかったという経験は誰にでもあるはずだ。そのような場所といっても、記憶そのままに存在し続けた可能性は低いのだ。これは、長く繰り返されてきたテーマであり、トーマス・ウルフの読者にとっては、おなじみであろう。
最終的に『テザ』は難解では全くないのだ。映画の冒頭、エチオピアの伝統的ななぞなぞ遊びをしている少年少女たち。「家を出た時に、それを見た」と一人が言う。そして「帰って来たら、それはなくなっていた」と。他の子どもたちは、この少年が意味するところをあてるのだ。それは、雨?愛?人生?幼少期?
答えは、朝露(アムハラ語でテザ)だということが判明するのだが、母国を失うこと、ひいては喪失そのものは、避けられないのだという、ゲリマの力強く普遍的な瞑想からすると、答えは、「上に書いてきたことすべて」でも正しいのだ。