キドラット・タヒミック監督
インタビュー

タヒミック監督の出身地でもあり、『500年の航海』の舞台ともなっているバギオの魅力、おもしろさを聞かせてください。

キドラット・タヒミック(以下KT):好きだったり嫌いだったり愛憎入り混じった場所です。
アメリカの植民地時代に作られた「ヒル・ステーション」がバギオでした。フィロピンはアメリカの唯一の公式な植民地でした。

なにしろフィリピンは、直接な植民地支配に慣れていない国だったので、指揮をとる場所としてマニラだと暑過ぎるということで、丘の上のより涼しい場所を探し始めたそうです。というのも植民地支配をしているオランダにせよイギリスにせよ、真夏の暑い時期に避暑に行ける丘の上の別の街を持っていることに気がついたんです。

「ヒル・ステーション」という言葉自体が殖民地主義と結びついた夏の間避暑に行く場所を指す言葉です。

ですから私自身が文化植民地主義の問題に強い興味を持つようになってから、バギオは愛憎入り混じった、嫌いな方の関係になりました。ですから自分の映画でバギオを撮るときは自分自身の自己矛盾、植民地的な自分のフレームとなる場所として捉えています。

でも良い面としてバギオは標高1700mなので一年中、春みたいな気候です。暮らしやすいとてもいい場所ではあります。

タヒミック監督の撮りたいテーマに適している場所なのでしょうか?

KT:私の映画で扱っているテーマの中でも、アメリカによる文化植民地主義によってフィリピンがいかに変わったかということを取り上げるときに非常にいい背景になります。

『500年の航海』では木の彫刻がとても印象的なのですが、バギオの産業として知られているのでしょうか?

KT:バギオは教育と観光が中心の産業になります。重工業がないんです。今はあちこちの企業のコールセンターがあります。

木の彫刻がマゼランの時代と現代を繋ぐようなものとしても使われていると思いますが。

KT:木の彫刻自体は主にイフガオ族の人たちがやっていて、住んでいる場所はバギオ市街から150Kmくらい離れています。そこでバギオが観光に中心になるわけでお土産として売るためにかなり多くの木彫り職人が引っ越してきていて、ひとつの通り全部が木彫り職人の店のような所もあります。

エンリケも木彫り職人ですよね?

KT:ひとつには私のファンタジー断端ですけども、文字で自分の記憶を残せない人たちは、木に掘ること彫刻によって記憶を残していくんです。イフガオ族は長い伝統の優れた木彫の技術を持っています。

『500年の航海』にはロペスさんという人が出てきますが。

KT:彼は天才的な彫刻家で、バギオに来たのは17歳か18歳の頃だと思います。バギオ郊外の木彫り職人の村を始めたひとりです。

私にとっては文化的な変容の師匠です。木彫りも教えてもらいました。私が木彫りを始めたのは映画のためなのですけども。映画が35年もかかると思わなかったので、木彫りだけやっていたら大先生になっていたと思います。残念ながら木を掘っているのはカメラに映るときだけです。

輪廻転生が大きなテーマとなっていると思いますが?

KT:映画自体始めたのは35年前、実際には40年近く前になります。もし最初の予定通りに映画が完成していたら輪廻転生の話しは入って来なかったはずです。

時間が経って撮り直して、同じ出演者を使おうと考えたとき、みんなが最後に出会う、500年経って出会うという話しにしようと思いました。

何年も経って顔かたちが変わっていたにしても、例えばスペインの王女が現代ではギャラリーのキュレイターだったり、伝記作家のフィガフェッタがギャラリーにやってくる写真家になっていたり、あるいは奴隷のエンリケを売る中国人の商人が別の人物で出てきたり、それに観客が気づいてくれることを期待しています。

ひとつには35年前に出演した俳優を「リサイクル」するために輪廻転生が出てくるんですけども、もうひとつ関係あるのはその間に私自身が仏教に改宗してカトマンズでチベット仏教の信者になって、輪廻転生という題材を気に入っているということもあります。だから今日、醍醐寺の真言密教の寺にも行ってきました(笑)。

なぜ仏教に改宗したのですか?

KT:フィリピンでは人口の75%が生まれたときから、両親がカトリックだから自分もカトリックになる、カトリックとして生まれています。

でも違う宗教にも興味があったのと、息子のカワヤン(※今回の映画ではマゼラン役も演じている)が仏教に興味を持っていて、二人でカトマンズのチベット仏教の聖地に行ってみたんですね。

そこでチベット仏教に興味を持ったのと、特に仏教徒の考え方として自分たちの苦しみの多くは、実は自分たちが作り出しているという思想があります。つまり考えすぎることで苦しみを自分たちで作り出している、そのような基本的な思想が非常に気に入ったので仏教徒になりました。

三つのめ理由として、私の妻が精神的な活動として、輪廻転生を深く信じているからです。息子からも妻からも影響を受けて、あと自分の作りたい物語からも影響を受けています。

つまりひとつには芸術的な判断として500年の時を経て同じ人物を復活させよういう考えがあったのと、自分自身が仏教の考え方に触れてそれを受け入れようと思ったからこそ、このような展開になったのです。

これまで西欧世界から見たアジアのイメージを打破するというような作品を作られていますが。

KT:それは意識してやろうとしたことではないんですけども、自分は過剰なまでにアメリカ化された人間であるという意識があって自分の自己矛盾と向き合うことと、その中で自分たちの失ってきたもの、本来あった先住民の文化だとかそこに根ざした自己認識を取り戻すということが重要になってくると思います。

それが昔はもっと先鋭的に出ていたと思いますけど、マイルドになってきている印象があります。

KT:今でも強いテーマになっているとは思います。自分の生活の中でも西欧的な物質主義とか消費社会のエコーチェンバーを非常に意識していますし、そういう視点から見て、先住民の人たちも見てきて、彼らがより自然とバランスを取って向き合う生活を送っていることも意識しているので、そういうテーマは常に作品の中に入っていると思います。

89年に山形国際ドキュメンタリー映画祭が始まって、小川紳介さんがアジアの作家たちを応援するという思いがあったと思いますが。

KT:『虹のアルバム』の中で友人の小川紳介は「稲穂の稲の粒の中に先住民の魂を見つけた」というようなことを言っています。それはつまり日本人として自分のルーツを見つけたということだと思います。

もちろん自分が小川さんのように科学的に稲作を分析するような映画を撮る気はないですが、ナオヤという日本の友達が素晴らしい棚田を作っていてそこに長く滞在したりすることで私自身も米粒の中に自分の部族を見出したのかもしれません。

バギオはなだらかな丘で棚田にはなっていませんが、少し離れたところには棚田があります。特にイフガオ族の地域にはきれいな棚田があります。アメリカのグランドキャニオンみたいなところが全て棚田になっています(笑)

日本との関わりについて、何か影響がありましたか?

KT:それは日本の皆さんが私の映画に関心を持ってくれたからだと思います。映画祭やアートイベントに大体、毎年のように呼んでもらっています。

アートと映画は監督の中で区別されていますか?

KT:自分自身が「映画作家」という分類に入れられることにかなり抵抗してきました。ですからパフォーマンスとかインスタレーションとか、異なった芸術のあり方にも挑戦してきました。

設計図なしで非常に原始的な建物を作ってみたり。特に今はもう完成してしまいましたが、この25年間ほど『500年の航海』になる前の発展途上の記録を未完成の映画として、パフォーマンスと共に見せるということをやり続けてきました。

未完成のものをあたかも出来上がった映画のようにパフォーマンスを見せるということが作品の一部のようになってしまった部分はあると思います。

ドゥテルテ大統領の登場など今のフィリピンの政治状況をどう思われますか?

KT:ドゥテルテはトランプとは比較したくないんですが、確かにトランプ的に見えるキャラクターだと思います。ドゥテルテに関して、私は現段階では何かの判断を下してはいません。

何よりも私たちを100年間も植民地化しておいて、フィリピンの大統領として「あっち行け。来るな」と言うことができた初めての人です。それ以前の大統領は誰一人としてその勇気を持つことができませんでした。そのことでは彼は評価できると思います。

私が一番気にかかるのは麻薬との戦争をやっている、その戦い方です。ただそこで彼のことを乱暴だ、酷いと言い張るだけのエコーチェンバーには入りたくないのです。フィリピンにおいては麻薬は本当に本当に深刻な問題なのです。私も人権についても重要な問題だと思いますが、一方で麻薬組織のボスたちが人権という概念を悪用して自分たちを守るために使っている面があるのは否定できないのです。

ナショナルアーティストという称号を貰ったから大統領に優しいわけではないし、その賞は大統領が決めるんじゃなくて同業者が選んで決める賞なので、映画作家の同僚たちが選んでくれた賞なんだけど、それを授与するのが単に大統領なだけであって、でもこの写真があるんです(ドゥテルテ大統領と並んで取られた写真を見せる)。このとき初めて会いました。このときちょっと面白くしようと思って「大統領閣下、自撮りしようって」(笑)

2018年11月1日 六本木にて