映画「何も変えてはならない」公式サイト - Pedro Costa


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1959年ポルトガルのリスボン生まれ。リスボン大学で歴史と文学を専攻。青年時代には、ロックに傾倒し、パンクロックのバンドに参加する。国立映画学校に学び、アントニオ・レイスに師事。ジョアン・ボテリョ、ジョルジュ・シルヴァ・メロらの作品に助監督として参加。1987年に短編『Cartas a Julia(ジュリアへの手紙)』を監督。1989年長編劇映画第1作『血』を発表。以後『溶岩の家』(1994)、『骨』(1997)でポルトガルを代表する監督のひとりとして世界的に注目される。その後、少人数のスタッフにより、『骨』の舞台になったリスボンのスラム街フォンタイーニャス地区で、ヴァンダ・ドゥアルテとその家族を2年間にわたって撮影し、『ヴァンダの部屋』(2000)を発表、ロカルノ国際映画祭や山形国際ドキュメンタリー映画祭で受賞した後、日本で初めて劇場公開され、特集上映も行われた。『映画作家ストローブ=ユイレ あなたの微笑みはどこに隠れたの?』(2001)の後、『コロッサル・ユース』は、『ヴァンダの部屋』に続いてフォンタイーニャス地区を撮り、カンヌ映画祭他世界各地の映画祭で上映され、高い評価を受けた。山形国際ドキュメンタリー映画祭2007には審査員として参加。最新作は女優ジャンヌ・バリバールの音楽活動を記録した『何も変えてはならない』。

監督のことば

 私の作品はいつもそうなのですが、『何も変えてはならない』は、ひとつの出会いから生まれたものです。ジャンヌと私が出会ったのは、2003年のマルセイユ国際ドキュメンタリー映画祭でのことでした。

 そこでいろんな話をしました……映画のこと、音楽のこと…。そして好きなものがいくつか共通していることがわかったのです。ルビッチ、ジョン・レノンとポール・マッカートニー、マリリン・モンローやレイ・デイヴィス、ヴェルヴェッツ…。当時ジャンヌは自身でいくつかの歌詞を手がけて、最初のアルバム『Paramour』を出したばかりでした。

 このアルバムを私のところに届けてくれたのが友人の録音技師フィリップ・モレルで、「ジャンヌとなにか一緒にやるべきだ」と最初に言ってくれたのも彼でした。

 はじめは迷いました…。音楽を巡る映画を制作するというのが、ちょっと怖かったのです。しかし結局は作りたいという気持ちが上回りました。私は小型のDVカメラを、フィリップは録音機とマイクを手に、ジャンヌとその音楽活動のパートナーであるロドルフ・ビュルジェの演奏が行なわれているニオールへと出発したのです。映画の冒頭、「Torture」という曲のショットが最初に撮影したものです。私はすぐにジャンヌやロドルフ、その周りのミュージシャンと過ごす日々が気に入ってしまったのですが、それでもこれがまとまりのある映画として成立するという確信はまだ得られませんでした…。そして時が経ち、私は『コロッサル・ユース』を完成させ、ジャンヌはジャンヌでさまざまな映画や舞台に出演していたのですが、フィリップは病に倒れ、亡くなってしまいました。そんなある日、ジャンヌがセカンド・アルバムの準備を始めるつもりだと言ってきました。もう拒む理由はありません。私は仕事に乗り出して、少しずつ映画がかたちになっていったのです。

 ジャンヌやロドルフ、それから一緒にいる他のミュージシャンたちも、ダニエル・ユイレやジャン=マリー・ストローブに劣らず誠実なひとびとです。だから『あなたの微笑みはどこへ隠れたの?』と同様に、たんにアーティストの作業についてのドキュメンタリーというだけでない、その少し先に到達しうる映画を作りたい、私はそう思っていました。私が映画を作るときには、いつでもひとつの密やかな物語が隠れていて、それを把捉し、できることなら馴致させなければならない、そしてそれはまずもって空間、時間、光や音でなされなければならないのです…。こういった秘密のあるところ、それがなんというか、一篇の小説のようなものになりうると信じているわけです。

 ミュージシャンたちがこうした光のなか、夕闇に沈み暁の薄明に照らされるまでのあいだで作業をすすめ、なにかを案出しつつ試行錯誤していく様を眺めていると、森小屋に身を隠し、村から村へと逃避行を続ける4人組の行程が頭に浮かんでくるようです。ひとりの美女が歌を口ずさんで癒しを与え、その片隅には触れると切れんばかりに神経をとがらせた男、さらには思慮深く威厳を保った<首領>がいるというような…。そんな映画があるとして、その理想的なサウンドトラックであるかのようなジャンヌとロドルフの音楽に耳をそばだてれば、こんな旅立ちもありうるのかもしれません……なにしろ私には、リハを開始しようとしたとたんに、かれらがフィクションに出てくる登場人物に成り変わってしまうように思えるのですから…。

 『何も変えてはならない』は恋愛についての歌に満たされています…。ここに出てくる詩や歌詞、そしてそのあいだの沈黙までもが、激情ゆえの懊悩や愛の孤独がもたらす苦しみを綴ったものなのです。それはとても古くからある、しかし馴染み深い感情なのですが、私はそこに、これまで私自身がフィルムに収めてきた女性たちの物語を見出すこともできるように思えます。ジャンヌによれば「この映画が描く肖像には、わたしひとりのものよりずっと多くのものがある」と……そう、肖像というのであれば、それは実在し、また実在しない複数の女性たちの肖像、あるいはもしかしたら私の心に宿り、映画の力、ジャンヌとその歌が捧げる秘儀を使って清められたたったひとりの女性の亡霊を描いたものなのかもしれません…。はたまた私自身がその亡霊ということもありえない話ではありませんよ…。

 自分と同じ時間を過ごしてなにかを探求する人たちにひっそりと寄り添って、かれらに視線を投げかけるということが、私はほんとうに好きなのです。ヴァンダがある感情を、ヴェントゥーラが思い出を、ダニエルとジャン=マリーが微笑みを、そしてジャンヌがトーンや和音を求める姿を、私はそばで見つめていたいのです。

——ペドロ・コスタ 2009年11月
(フランス語版プレス・リリースより転載)