映画「何も変えてはならない」公式サイト - ジャンヌ・バリバール×寺島しのぶ


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ジャンヌ・バリバール×寺島しのぶ スペシャル対談

日時:6月27日 L'idiot(『白痴』)上映後
場所:東京日仏学院エスパス・イマージュ
出演:ジャンヌ・バリバール、寺島しのぶ
司会:坂本安美(東京日仏学院映画プログラム)
同時通訳:福崎裕子、高野勢子

採録:石川宗孝
(バリバール発言部分採録監修:福崎裕子)

司会:皆様、本日は大勢お集まり下さいましてありがとうございます。おそらく、昨日のライブにいらしていただいた方もいらっしゃるかと思います。寺島さんにもいらしていただきました。本当にさすが女優と思わせるパフォーマンスと歌で魅了させていただいたんですけども、突然ですが寺島さん、ライブの方はいかがでしたか?

寺島しのぶ:すごくいっぱいの人で、ぎゅうぎゅう詰めの中で観たんですけども、歌手ではない、女優さんが歌う歌という感じで、すごくエモーショナルな動きが感じられて、とても感動しました。

ジャンヌ・バリバール:ありがとうございます。

司会:そして今、ジャンヌ・バリバールさん特集ということで9本の作品をこちらで紹介させていただいてまして、本日は4本上映しているんですけれども、もしかしたら4本全部ご覧になられたという大変勇気ある、頑張って下さった方もいるかと思います。ちょうど今上映が終ったばかりですので、観ていただいたL'idiot(『白痴』)という作品について、今観たばかりで、皆さん色々とご感想をお持ちかと思いますが、最初始まったときはすごく静かな感じで、本当に「室」で行なわれている映画で、それが言葉のやり取りや表情のやり取りでだんだんと緊張感が高まっていって、最初はにこやかに、穏やかそうなジャンヌ・バリバールさんが、最後は、この間も出てきた「女盗賊」という言葉がまた相応しいかのような感じでワッと突如表情も変わっていくという、静かな映画と思いきやワッと動きが出て、最後には物凄い緊張感が高まるという面白い映画だと思ったんですけども、まずこちらの作品について一言ジャンヌさんからどういうきっかけでこの映画へのご出演が決まったのかということをお話しいただけますでしょうか?

ジャンヌ・バリバール:実際には、監督のピエール・レオンの仕事はそれ以前から知っていました。彼はフランスの映画作家数名からなるいわば銀河のようなグループの一人でした。かなりアンダーグラウンド的な傾向の映画をある時期作っていたグループで、「スパイ・フィルムズ」というグループ名を持ち、ビデオで撮影を行っていました。そのグループの周辺には、映画作家で、この映画にも出演しているセルジュ・ボゾンもいました。ですから、彼らの作品を私は知っており、ピエール・レオンの映画がとても好きでした。彼から電話があり、このドフトエフスキーの『白痴』の一章を映画にするというオファーをしてくれたのです。「20年かけて、『白痴』全編を映画にしたい。少しずつ撮っていく。その間に、俳優の顔が変わるだろうけれど、仕方がない。とりあえず一章だけを映画にする。」と彼は言いました。
 撮影は10日間でした。寺島しのぶさんは『キャタピラー』の撮影が12日間だったとおっしゃいましたから、ほぼ同じぐらいの撮影期間です。全く予算がなく、俳優たち全員のスケジュールが同時に空いている日がとれませんでした。そこで相手役がいないのに自分の台詞だけを言って撮影をしたことが多かったのです。ピエール・レオンにとっては、とても難しい撮影だったと思います。けれども完成した作品はとても美しいものになっています。どういう風にしてなのかはわかりませんが、彼はこの映画を見事なものに完成させました。この映画の出演を受け入れたのは、もちろん彼が以前に作った作品を見ており、好きだったからです。相手役なしの抜き撮りばかりになるとは予想しませんでしたが。

司会:つまり、監督さんへの信頼感があったからこそご出演なされたということだと思うんですけれども、今日お二人にこうやってご出演いただいて、このような機会を持てることを本当に幸せに思うんですが、ほぼ同じ世代で、国は違いますが女優というお仕事をなさっていて、二人のフィルモグラフィーを拝見すると、そこにはやはり何らかの二人の「選択」というか「意志」がお仕事を選ぶ時にあって、フランスのことはあまりよくわからないのですが、日本の場合は今どんどん日本映画が増えていますけれども、数は増えていてもやはりなかなか質の高い作品というか、作家性の高い作品が減っていて、そういう中で寺島さんの選択というのはとても勇気のある、そしてご自分の意志が働いているものだと思います。またジャンヌさんも今やフランスでは誰もが知る大変有名な素晴らしい女優さんですけれども、やはり今ご覧になられた作品のように、そんなに一般的に知られている作家ではないけども彼女がとても才能を買ってらっしゃる監督の作品に出演なさっています。今、ジャンヌさんはそういった監督への信頼感で選んでらっしゃると仰られましたけれども、寺島さんの場合、作品を選ぶときの一番重要な基準というのはどういったところにありますでしょうか?

寺島しのぶ:やはり脚本(ホン)しかないですよね。答えは脚本(ホン)にしかないですし。それプラス監督、監督がそれをどう料理するかということもあるのですが、まず自分が本当に脚本(ホン)を一読して、「あっ、これ!」という…なんかこう動物的感覚なんですよね。それを信じて今までやってきたので。簡単な台本じゃなくて、人間の色々な部分が描かれている作品が好きですね。

司会:若松さんの『キャタピラー』を皆さんが劇場で観られるのは8月の…?

寺島しのぶ:14日なんです。本当は、終戦記念日の15日にやりたかったのですけれども、日本は土曜日に映画が切り替わってしまいますので、ちょっと前夜祭ということで14日からやることになりました。

司会:こちらの作品は、既にベルリン国際映画祭のほうで主演女優賞を受賞なされていて、各国での上映も今決まっていて、今度パリのほうでも若松監督の特集が組まれて大々的に公開がされるようですが、こちらもやはりまずは脚本(ホン)のほうから出演をお決めになったのですか?

寺島しのぶ:そうですね、先ほどジャンヌさんも言ってらしたけど、とても低予算な映画で、若松組は本当に低予算で、もちろんヘアメイクさんもいないし、衣装も全部役者が手配もメンテナンスもしなくてはいけないし、役者に課せられている部分がすごく多いんですよね。ですから演技プラスそういうこともやらなくてはいけなくて結構大変なんですけれども、でも私も監督が好きだから、監督を信じて、やりたいなと思ったので、それが辛さを乗り越えたというか…(笑)

司会:前にジャンヌさんが今日上映した『8月の終わり、9月の初め』というオリヴィエ・アサイヤス監督の作品に出てらして、そのプレスで仰ってたのか、よく映画は、出ている俳優の身体ということを言うのだけれども、実は監督の存在感とか身体の在り方というものがすごく映画やもちろん演出に関わってくるということをお話しになっていて、オリヴィエ・アサイヤスはそこにいるだけで何かマジックなものを持っていて、それが自分たち俳優に働きかけるものがあるというようなことを仰っていたんですね、覚えてらっしゃるかどうかはわからないのですけども。やはりそういった部分というのは大事なんですかね?演出だけではなくて、監督のその存在から出てくるものと言うか…。

ジャンヌ・バリバール:そうです。先程しのぶさんが出演作を選ぶときは「動物的感覚」が働くと言っておられましたが、私は実際に映画と監督との関係、また俳優と監督の関係には、何かとても動物的なところがあると思っています。
 だから、私はシナリオを全く読みません。むしろ監督本人に会うことが必要なのです。その監督の作品を観るのは当然ですが、監督自身に会わなければなりません。それは友情や愛情の場合と同様です。彼の身体と私の身体とがうまくいかなかったら、その場合は一緒に映画はできません。別にキスをするわけではないのですが、互いの身体の間に流れるものがある、交流があると感じられなければできないのです。私にとっては、監督の存在感や、私たちの二つの身体がそこに存在する時に起きる何かがもっとも重要です。それこそがまさにカメラが撮影しているものなのではないかと私は考えています。監督の思想や、私の体や感情ではなく、二人の間で直感的に起きているものをカメラはとらえているのだと思うのです。神秘的な話に聞こえるかもしれませんが、うまくいっている時には必ずそうしたことが起きていることに私は気づきました。また、監督の声が聞こえることも、私には必要です。話の内容は私にとっては重要ではないのですが、監督の声が私を物理的に変えていくことが必要なのです。彼が私に近づく時、あるいはカメラの横にいる時と、カメラから遠いところにいる時とでは、違いがあります。その位置関係により撮影現場に空間が作られるからです。これはもちろん私の幻想ですが、それがカメラに捉えられているものだと思うのです。そしてそれが美を生み出すのではないでしょうか。俳優の存在感についてはしばしば大げさに語られますが、映画作家をよく見ると、本当に興味深い映画作家は本当に存在感を持っていることに気づくでしょう。

司会:しのぶさんはいかがでしょう?

寺島しのぶ:そうですね、えっ、じゃあこの人とうまくいかないなぁと思う人とは一緒に映画しないという感じですか?(笑)この監督とはちょっと人間的に無理かなぁという人とは一緒にお仕事しないんですか?

司会:無理しなきゃいけないときもないか?ということですよね?(笑)

寺島しのぶ:そうそうそうそう。

ジャンヌ・バリバール:(わざと咳払い)今までもう何度も間違えました。それが人生です(笑)。自分を無理に合わせることについては、どう言えばいいのかわからないのですが…しばらく前に13歳の息子と話したことがあります。息子は1学期と2学期はとてもよく勉強したけれど、3学期は成績がそれほど良くなかった。それで「どうしたの、前ほどは勉強しなかったのね。」と叱りました。すると彼は、「興味があるときだけ、僕は勉強するんだ。」と答えました。「だめよ、人生ではそんな風にはいかないわ。」と私が言うと、彼は「でもそれが僕の考え方だ。ママにはママの考え方があって、僕には僕の考え方がある。」と言いました。「何ですって、勉強をしないのがあなたの考え方なのね?!」と私は少し怒りました。それから2日間、息子に会いませんでした。
 2日後に再会した時、「あれからいろいろと考えたけれど、少し言い過ぎたわ。厳しく叱りすぎたと思う。」とあやまりました。すると彼も「僕も考えた。」と言うのです。「僕が『関心がある時だけ勉強をする』というのと、ママが『フランス映画のシステムに入るために無理をして映画に出るよりも、ギャラが稼げなくても関心がある映画に出演する方が私はいい。』というのと、どこが違うんだろうかって考えた。どう違うの?」と言ったのです。仕方なく「私もよく考えてみる。」と答えました。
無理して映画に出るかどうかは、私はよくわかりません。しのぶさんはいかがですか?時には無理をして映画に出ることがおありですか?

寺島しのぶ:えーっと…ないですね。無理はしないですね(笑)。でも、初めての監督はどういうパーソナリティなのかわからないじゃないですか?それは賭けですよね。

ジャンヌ・バリバール:賭けでしょうか。でも、映画館にかかる映画と同じだと思うのです。クレージーだと言われるかもしれませんが、フランスでは映画は水曜日に公開が始まり、するとその映画が何かサインを私に送っているような感じがするのです。「あっ、このサインを感じるからこれを観に行こう」あるいは、「この映画は悪いサインを送っているから観に行かない」とか。もちろん間違えることもありますが。人にしても同じ。人やものがサインを送ってくれるから、それに賭けられるのではないでしょうか。
時々、無理をすることも必要でしょう。なぜならば映画は映画産業の外で存在するものではないからです。それはいいことだと思います。監督が注文を受けて作った映画にも傑作があるように、映画史の中には、俳優が全然力を入れて演技をしていない、やる気がなかった作品が、彼のフィルモグラフィーの中で最高の映画の一つになっている例がたくさんあります。たぶん時には私ももう少し無理をするべきなのでしょう。また、自分が無理をすることも一つのアーティスティックなアプローチとして面白いと思います。人生ではそれが出来る時もあれば、出来ない時もあるでしょうけれど。いかがお考えですか?

寺島しのぶ:いや、でもさっき、ジャンヌさんは撮影中にすごく監督とコミュニケーションをとると言われているんですけども、私の場合は普段すごく仲が良くて飲みにいったりする監督とかとも、現場に入ると一切喋らなくなっちゃうんですよね。それは私、色んな映画でも全部そうなんです。

司会:つまり雑談はしないということですか?

寺島しのぶ:雑談もだけど、演技についてもほとんどしなくて、それが定番になってきちゃったんですけども、それって変ですかね…?(笑)

ジャンヌ・バリバール:定番ですか? 変かどうかはわかりません。例えばジャック・リヴェットの映画に私が出演をした時、映画について彼と話すことはまったくなかったのです。一度も。リヴェットはいつもこう言っていました。「私が俳優を選んだその瞬間から、その俳優の方が登場人物について、また映画についてすらも自分よりもよくわかっている」と、リヴェットはいつも繰り返し言っていました。ですから、しのぶさんが言われたことはわかります。時には、様々な説明の中に溺れさせられたくない、ただそれをしたいだけ、ということがあります。言葉を必要としないことがたくさんあるのです。たとえばカメラがここにあって、カメラがこういう風に動く場合、私たち俳優は何が起きているのかがわかります。何かを理解できますから、それをわざわざ言葉で説明してもらう必要はありません。
しかしフランス映画では、あまりにも多くのグループや、集団の神話があります。それはヌーヴェル・ヴァーグに端を発しています。その神話、全員が休暇に一緒に旅行するようなグループという神話、それは嘘です。けれどもそうしたグループ神話の痕跡があり、仕事の場を離れても友達関係が出来たりすることもあります。これは典型的なフランスの現象でしょうか?

司会:そうですね、日本の場合あまりないですよね?

寺島しのぶ:そうですね。

ジャンヌ・バリバール:監督と俳優が仲良くなってという…?

司会:やはりもちろん、どの国も映画監督と女優さんの結びつきが強くなっていって結婚するとか、そういった結びつきはありますけど、仲間で映画を作っているというのはなかなか私は聞かないですけども?

寺島しのぶ:私もあまり聞いたことがないですね。

司会:先ほど観た映画に出ていたセルジュ・ボゾンは日本では公開はされてないのですけども、『モッズ』というすごく面白い映画を撮っていたりするのですが、彼らなんかは本当に仲間だけで撮っていますよね。だから、確かにそれはフランス映画の面白いところでもあり、また面倒臭いところでもあるのかなぁという気はしますけれども(笑)。
 フランス映画の面白さというのは、やはりフランスではどうしても批評というのが、日本にももちろんありますけど、まだしっかりと健在であって、フランスの批評家の色んな人たちが…、今日の作品にもベルナール・エイゼンシッツという、有名な映画批評家が俳優ではないですが出演しています。

ジャンヌ・バリバール:おっしゃる通りです。フランスでは確かに批評家で映画作家になった人がたくさんいます。あるいは友情のために、友達の作品にゲスト出演する批評家がいます。またフランスの文学史の中には、文学評論あるいは映画評論が、文学の一部であった時期があるのです。批評が、プロモーションやマーケティングとかと関わりがない、文学の一部のジャンルであったときがあります。そのため、こうした批評の潮流が今も残っています。ユスターシュ、もちろんトリュフォーも、ロメールもそうです。しばしばそうした批評家たちは映画に出演すると、非常に面白い俳優になります。ベルナール・エイゼンシッツも『白痴』の中で素晴らしい演技をしていました。

司会:今ちょっと批評の方に話を持っていってしまったのは、特にヌーヴェル・ヴァーグの人たちが「作家主義」ということを言い出して、監督によってその作品を観る、というんですか、それまで例えばヒッチコックとかただの商業的な監督と言われていた人の作品を、作家として崇めて観るという、それが今でもある意味定着していて、例えば若松さんの特集をやるというのも、その作家主義でもあるわけなんですけども、それに対して「俳優主義」ということを言い出した、リュック・ムレという監督でもあり批評家でもある人がいて、それは監督だけでなく俳優も映画史を作っていると、つまり例えば全部寺島さんの映画を見続けることで寺島さんの作風というものがそこにある、というようなそういった見方なんですけども、寺島さんは監督が違っても維持していらっしゃるようなご自身のスタイルみたいなもの、そのような意識はありますか? 説明が悪かったら申し訳ないんですけども、ご自分が日本の映画史を変えているような意識というか…?

寺島しのぶ:いやいやいや、そんなことは全然ないです(笑)。でも、色んな監督に会うということは色んな指揮をされるということだから、色んな自分に出会えたりして、一番嬉しいのは、監督が自分の意識から外れているときの顔を撮ってくれているときですかね。出来上がったのを観て「あっ、これ私の顔をこんなふうに、こんな表情を撮ってくれていたんだ」とか、そういう自分自身で新しい発見が出来るとすごく嬉しいですしね、次もまたそういう監督に出会いたいなぁと思いますし。自分自身は、それは精一杯やっているだけのことで、やっぱり監督って大きいですよね。

司会:ジャンヌさんは、そういう別の自分というか、知らない自分を発見したときの瞬間というのは、やはりたくさんありますか?

ジャンヌ・バリバール:もちろん私も同じです。それこそ私が興味を持っているものです。撮影現場にいる時、自分が今までにしたことがないことをしている、今までに知らなかった自分を出していると、それに自分で気づきます。映画に出演してまさに素晴らしいと思うのはそうしたところです。撮影のとき、演技をし、「あっ、こうなのか。こんなことをするんだ」と自分自身に気づくこと、これがカメラの前に立つ時の喜びです。また、出来上がった作品を観て、「私はこんなことをしたのだ」と思う、それも同じ喜びです。別のやり方で仕事をすることは想像もつきません。そうしたことが起きるだろうと予想できる作品や監督を選ぶように私は心がけています。なぜなのかはわかりませんが、自分が何をしているのかわからなくなるような、そんな瞬間が持てるだろうという予感です。
 また同時に、そのような私たち俳優の感覚と、今お話に出たリュック・ムレのテクストと比較するのは興味深いことだろうと思います。俳優についてのすばらしい文章ですから。かなり前に読んだその文章を、偶然、私も最近読み直しました。ゲイリー・クーパー、ジェームス・スチュワート、ケイリー・グラント、ジョン・ウェインが出てくるアメリカのコメディをたくさん観ていたからです。私が驚いたのは、このような分析、つまりおそらく無意識に作った作品を分析することを、リュック・ムレ以外のほとんど誰も俳優に関して行なっていないことです。結局自分たちが何をしているのかを言うのは、俳優の役割ではありません。他の人がすべきでしょう。この俳優はこのテーマをこういうかたちで取り扱っている、この感情に対してはこのような距離を取っているといった演技の分析は他の人が行なうべきであって、私たちが言葉でそれをしてはならないと思うのです。いつか誰かが、その問題を研究してくれるとしたら、私たちにとってはどうでもいいけれど、とても面白いものになることでしょう。いずれにしろこの、アメリカの俳優に関するリュック・ムレの文章は本当に素晴らしいものです。それは絵画と同じアプローチが俳優についておこなわれています。絵画にはキュビズムの時期など、様々な時期があります。同様に、たとえばジョン・ウェインに関して色々な時期が判別されています。ふと気付いたことですが、今まで女優についてはそうした形で書かれたテクストは全くないと思います。なぜだかわかりませんけれども。

司会:ぜひ今ここにいらっしゃっている映画青年や映画批評家の方がいたら、俳優論というものをもう少し発展させていっていただければと。こちらではフランスの批評家をよく迎えることがあって、ジャン=マルク・ラランヌが来たときはフランス女優史というものをやって下さって、すごく面白かったんですよね。どういう風にフランス映画の中で女優の演技が変わっていったのかということをやったりはしましたけども、なかなかないですよね。それでやはり今日お二人をお迎えしたとき、寺島さんの映画は本当に寺島さんの映画だと思わされるし、ジャンヌさんの映画は本当にジャンヌさんの映画だなと思わされるところで、やはりもっとそこの部分で語られて、今度パリのほうでも寺島さんの映画の特集もあるということなので、ぜひそういう風にこう、まとまって観たときに見えてくるものってすごく面白いと思うんですよね。だからジャンヌさんともこの間話したんですけども、レトロスペクティヴというのは監督のものが多いけれども、今回のように女優さんのものは結構無かったりして、実際こうやって今回観ていてジャンヌさんがこの10年間ぐらいの間にどういう風な演技をしてきてどんな風に変わっていらしたのかを見るのはすごく面白いことだなという風に思うんですよね。
 ここで最新作のペドロ・コスタ監督の作品のことをお話ししたいんですけれども、先ほど監督との出会いということはすごく大事だということだったんですけれども、ペドロ・コスタさんと最初に会ったときに、すぐに「この人と映画撮ろう」なんて思ったりしたんですか?

ジャンヌ・バリバール:いいえ、プロの俳優とは作品を撮っていない監督ですから。今回ペドロ・コスタが私と映画を作ってくれたことに感謝しています。彼の実に現代的な作品がとても好きなのです。
彼と出会ったのは映画祭で、二人とも審査員でした。つまり、映画の観客として出会ったのです。映画に対して、お互いいつも同じ感動を覚えているということ、同じ眼差しを持っているということに気づきました。私たち二人の映画の観客としての在り方がとても近いものだったのです。あるとき二人で話していて、彼にこう言ったのを覚えています。「困っていることがある。観客として私が好きな現代の映画は、ジャ・ジャンクー、キアロスタミやあなたの『ヴァンダの部屋』のような映画で、そこには俳優が出演していない。私たちのように演劇の舞台にも立ち、一年に何本もの映画に出演するプロの俳優は出ていない。私たちのような俳優は、私が好きな種類の映画に出演することはほぼ不可能。もちろん映画にとっては私たちのような女優が出ていなくても問題ではないけれど、私にとって困ったことは、そういう映画が私の好きな映画だからなの。映画が好きだから俳優をしているのに、同時代で一番好きな映画に出演できないのは困ったことだわ。」そんな話をしたのでした。
 それから何年もたって、彼と映画を撮ることになりました。自分が出ることは不可能だと思っていた領域で、彼と仕事をすることができたのです。寺島しのぶさんの場合はどうでしょうか? このように普段仕事をしている伝統から完全に離れた形で作品を作るといったことはありましたか? そういうことが実現すると本当に大きなプレゼントのような感じなのですが。

司会:しのぶさんはこちらの『何も変えてはならない』をご覧になられてらっしゃるということなんですけれども、今の話をお聞きになっていかがですか?

寺島しのぶ:そうですね、ペドロ・コスタさんとは山形国際ドキュメンタリー映画祭でお会いして、そのときに前作の『コロッサル・ユース』も拝見したんですけれど、全く観たことのない分野の映画という感じですごくショッキングだったんですよね。女性の何を考えているのかわからない顔がアップでずっと永遠と、今回のジャンヌさんのも歌っているところの横顔をずっとそこを…、もう本当にそこだけじゃないですか。そこのシーンの中に何かがすごく語られていて…。全部を見せていない方がすごく想像をかき立てられるというか、顔以外の部分はどうなっているのだろうとか、彼にしか出来ない何かものの見方で映画が出来ているなぁと、すごく色が感じられて…、私はすごく好きでしたね。
 今回の映画もあの横顔のアップをずっと撮っているのがすごく物語っていて、面白かったです。面白かったというか、ジャンヌさんを見られたような気がします。人間を。あんなドキュメンタリーって無いですよね? 普通だったらもっと全部を映して、何かわかりやすく説明をするんだけれども、それ以上に想像をかき立てられてしまったという…

司会:どこにいるのかもよくわからないですからね。昼か夜かもよくわからない。(笑)

寺島しのぶ:わからないですよね、本当。

司会:でもジャンヌさんも出来たのを観て、二日前ですかね?この間上映した後にお話なさっていて、こういう映画だとは本当に想像していなかったようですけれども、やはり自分じゃない自分がいるという感じをお持ちになられましたか?この自分は初めて見た、というような。

ジャンヌ・バリバール:もちろん、とても感動しました。…わからないけれど、本当に感動をしました。今でもそうです。けれども、この映画を私はフィクションとして見ました。滑稽なフィクションのような感じがしました。コミカルなところを強く感じたのです。たとえば冒頭、一人の女性が画面に現れ、「私は自分を傷つける、あなたの注意を引くのに役立つから」と言いますが、映画の最初としてはとても可笑しい始まり方だと思います。

司会:オペラの先生のところなんて素敵なシーンですけれども、歌のリハーサルのシーンとはまた違う位相になっていて、笑いを誘うというか…。各シーンが本当に違う映画にも見えるというか、そういう面白さもありますよね。もちろんひとつのストーリーにも見えるけど、色んなエピソードで出来ているような。

ジャンヌ・バリバール:実際ペドロ・コスタは、素晴らしい女性の人物像を作り上げたと思います。日本ではどうなのか知りませんが、現在のフランスでは、女性の登場人物を中心に構成された作品が少なくなっています。映画史においては、女性を主人公にした重要な映画の例は、千本もあるでしょう。たとえばマックス・オフュルスや溝口の映画では、女性の人物像がフィクション全てを支えています。ところがフランス映画の現状はそうではありません。日本はどうでしょうか?

寺島しのぶ:日本もそうじゃないですか?

司会:そうでしょうね。

寺島しのぶ:だから私は『キャタピラー』が来たときすごく嬉しかったんですよね。女性が中心でという映画は近年観ていないような気がするんですけどね。

司会:それか、資生堂のCMコマーシャルみたいな映画とかね。

寺島しのぶ:そうですね。でもまぁ、あれは映画と言えるんでしょうか?(笑)でも、どうしてでしょうね?

司会:そういう意味で『キャタピラー』の最後は本当に女性としても爽快。とても辛い話というか、戦争中の話でとても重たいテーマではあるんですが、女性の力強さとか生命力とか、そういったものを若松監督が本当に爽快に描いてらっしゃる映画だと思うんですよね。だからそこを、そういう風に描かれたことに拍手、というのは本当に観ていて思ったんですけれども。
 でもそれは問題ですよね。フィリップ・ガレルという監督がある監督の作品について「この映画は、50%と50%、女性と男性について描けている映画だ」というようなことを言っていて、そういう風に考えるとあまりそのような映画はないよなぁって思いまして。大体女性は、20%から30%ぐらいで後はこう…、変にフェミニズム的な物言いになってしまったらアレなんですけど、映画において女性が男性と同じぐらいの重要性、あるいはもっと大きい重要さで描かれてもいいんじゃないかっていうふうに思います。もちろんかつては溝口健二監督とか、成瀬巳喜男監督とかいたわけなんですけど、それが何故か色々なものが発展する中で減っているという意識はすごくありますね。

ジャンヌ・バリバール:いずれにしろ、フランスではこの現象はおそらく一時的なものではないかと思います。少なくとも最近の現象です。今、オフュルス、溝口、そしてガレルの例があげられましたが、他にも、映画の原動力を女性の登場人物においた作品、映画作家が映画史中には無数にいます。ただ現在だけ、女性を中心にした映画が少ないように思われます。何故だかはもちろんわかりません。

司会:ぜひ女性を描ける、今この会場のどこかにいらっしゃる諏訪監督。その中でも唯一頑張って下さっているような気がしますけれども、女性だから言うのではなくて、本当にもっと女性の映画を観たいなというふうに思うんですけども。
 せっかく皆さん、集まっていらっしゃって多分お二人にお聞きになりたい質問があると思うので、時間は限られておりますが、ぜひこの機会にご質問をいただければと思います。


観客①:私は商業映画の会社で働く者なのですけども、先ほど拝見した『白痴』ですとか、寺島さんがご出演されているこれから公開される『キャタピラー』ですとか、そういう作家性の強い映画というのが日本においては最近どんどん公開が難しい状況になってきていると思うんですけども、逆に私が働いているような商業映画の会社ではどういうことが出来るというふうに女優さんとして思われますか? ちょっとまだ若造なので、こういう作家性の強い映画をどんどんやっていくべきだと私は思うので、それに関してお話を伺えたらと思います。

司会:配給とか宣伝に求めるものということですよね?

観客①:はい。

寺島しのぶ:それは、お金があるに越したことはないですよね。お金がある会社というのは、誰々を主役に使わなきゃいけないとか、動員数がどうだとかそういうことをすごく考えての大手の映画で、私は大体そういうのには呼ばれないんですけども。(笑)
 そうですねぇ、監督さんが全部決められるようにすれば良いのではないですか? お金だけ出して、口は挟まないというのはどうですか?(笑)

観客①:配給方針を全部監督に依託する?

寺島しのぶ:はい。あとキャスティングとか製作も含めて。それはどうですか?

観客①:すごく良い考えだと思います。スポンサーを納得させられれば…。

寺島しのぶ:そうですよね。日本はそれがあるから、良くもありダメなところでもあると思うんですよね。

観客①:フランスはいかがですか?

ジャンヌ・バリバール:全く同じだと思います。商業映画と作家映画の間の行き来が容易にできればいいだろうと思います。区分なしに。それがより容易にできる時期もあるでしょう。商業映画と作家映画の間で行き来があり、お互いが出会うと、それは双方にとって得になると思うのです。今のところそうしたことをおこなうのは難しい。両方が硬直しています。スポンサーの方ではこれは望ましいが、これは嫌だと言ったりする。それでは全員にとって内容的な貧困化を招いてしまいます。

司会:他にいかがでしょうか?

観客②:今日は二人の素晴らしい女優さんにお目にかかれて大変光栄です。どうもありがとうございます。ジャンヌさんに質問なんですが、さっきリヴェット監督のエピソードがあったと思うのですが、私はジャンヌさんの作品の中で一番心に残っているのは『ランジェ公爵婦人』なんですね。あの映画はすごく役柄が繊細で役作りが困難かと思うのですが、映画の制作過程に当たってジャンヌさんのエピソードを教えていただきたいのですけれども。

ジャンヌ・バリバール:あの仕事の中で一番気をつけたことは、歴史的な人物の問題です。ランジェ公爵夫人は、しかもその上に文学的な登場人物でもあります。とても複雑でした。もちろんまず原作のバルザックの小説を読みました。小説の冒頭の30ページは、私が演じたアントワネット・ド・ランジェが「王政復古期を具現している人である」ことを説明していました。王政復古期はフランスの歴史の中の一時代で、20年続いた時代ですが、あまり知られていません。1820年ですから今から2世紀前です。ですから私は頭を抱えてしまいました。どうのようにして王政復古を体現したら良いのだろうか、どうすればいいのだろうかと悩みました。そこで私は、最も良いのは何もしないことだ、という結論にいたりました。1820年代の女性はどういう風だっただろうか、そして夫がいて、また同時に恋人を持てる、神様を信じ、ついには修道院に入る女性がどういうものなのか、そういったことは考えることは無駄だ、絶対にわからないし、それをわかったような振りをすることもできないと思ったのです。
 ですから私が気をつけたことは、いつもなるべく今その時点のことを考えることでした。その物語の現在を考えるのです。つまり、単に相手役のギヨーム・ドパルデューがしたことに対して答える、あるいはジャック・リヴェットがテクニシャンたちに言うことを聞き、台詞の次の行ですらなく、今言う一行のことだけを考えるのです。そこから真実が出てくる、そうすれば衣装やそして映画が他の部分を作ってくれるだろうと私は思いました。
一度ニューヨークで上映後に観客との質疑応答をしたことがありました。かなり高齢のご婦人が「あなたは、全く1820年代のフランス人女性のような様子がない。あなたの解釈、演技は本当にひどい。19世紀初めの女性には見えない。」と激しく非難しました。私は不愉快な態度は示したくなかったのですが、彼女にはとても不愉快な答え方をしてしまいました。「あなたは19世紀初めのフランスの女性がどういうものかご存知のようですが、私にはわかりません。」と言ったのです。とても年老いたご婦人でしたから、悪く解釈されたようです。彼女が1790年代の生まれのように見えるとか。もちろん私の言いたかったこととは異なります。
撮影中のエピソードはたくさんありますが、ひとつ申し上げられることは、ギヨーム・ドパルデューはいつもめちゃくちゃ、デタラメなことをしていたことです。ジャック・リヴェットは俳優の方が登場人物のことをわかっていると言っていたのに、絶望して髪をかきむしっていました。「ギヨームが何をしている? 何だ、これは?」と言っていました。ただしリヴェットはとても礼儀正しい人ですから、騒ぐのではなくひそかに悩んでいました。けれども、実際には、ギヨームがしたことは正しかったのです。私は非常に感銘を受けました。映画の中で自分がどういう風に進むか、自分の行程をここまで全て自分一人だけで決める俳優に会ったのは初めてだったからです。しかも自分勝手なことをしているように見えて、実はもっとも映画に奉仕していたのがギヨームだったのです。とても複雑な人でしたが、私にとっては毎日彼がそのようにしているのを見ることが、本当の映画についての教えになりました。

司会:本当に素晴らしい俳優で、素晴らしすぎてやっぱり彼の天才性というのが、あんなに短い人生になってしまったかと思うと、本当に残念です。また来週も『ランジェ公爵夫人』を上映しますので、ぜひ見逃している方は観ていただけたらと思います。それでは残念なんですが、そろそろお時間の方が無くなってきてしまいました。お二人とも公開作品が間近です。『何も変えてはならない』は7月31日、渋谷のユーロスペースにて公開です。そして『キャタピラー』の方が8月14日公開となります。両方とも観に行っていただければと思います。それでは最後に、一言ずつお二人に何かいただければと思うのですが?

寺島しのぶ:同世代のジャンヌさんと色々なことを、ここだけではなくてさっきから裏でも二人で喋っていたりしていたんですけども、こういう機会を与えて下さってありがとうございます。そしてやっぱりここに来ていらっしゃるお客様ってすごいなぁって思います。わざわざこういうところに来て、このような映画を見るという文化は、日本は本当に今危ういなぁと思うので、ここに来ているような方たちがどんどん多くなってくると、日本はもっと良くなってくるのではないかな、と思いました。ありがとうございました。

ジャンヌ・バリバール:今の寺島しのぶさんの言葉をそのまま、私のまとめの言葉にしていただきたいと思います。

司会:ありがとうございます。それでは皆さん、本当に長い時間ありがとうございました。お二人に盛大な拍手をお願い致します。(会場:拍手喝采)

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