映画「何も変えてはならない」公式サイト - 映画美学校特別講義


美学校pedro_1.jpg

美学校pedro_2.jpg

美学校pedro_4.jpg

「何も変えてはならない」とジャンヌ・バリバール

ペドロ・コスタ監督映画美学校特別講義より(2010年5月7日会場:映画美学校

※ペドロ・コスタ監督は韓国のチョンジュ国際映画祭に滞在後、『何も変えてはならない』日本公開のため来日。

司会:吉川正文(宣伝プロデューサー)
通訳:芳野舞

司会:今日は韓国から直接日本にお越しいただいて、お疲れのところどうもありがとうございます。韓国では、特集上映が組まれて大変な人気だったということなんですけれども…。では一時間ぐらいの短い時間なので、さっそく質疑応答に移りたいと思いますが、はじめに私の方からシンプルな問いかけをしてみたいと思うのですが、この映画『何も変えてはならない』というタイトルは、どういったところから来ているタイトルなのでしょうか?

ペドロ・コスタ監督:まずこのタイトル『何も変えてはならない』というタイトルは、ひとつの歌のタイトルで、この映画の中で、ジャンヌ・バリバール自身がコンサートで歌っている歌です。このタイトルは、もうひとつ、ジャン=リュック・ゴダール自身の言葉ではなく、彼が盗んできた言葉の語句の半分になっています。このフレーズは、ゴダールがブレッソンから盗んだものです。完全なフレーズは、「全てが異なるために、何も変えてはならない」で、このタイトルはそれそのものを意味するフレーズなんですが、これはまさに私自身が映画の仕事を行なう上で公式のようにしているもの、あるいはジャンヌ・バリバール自身が音楽の活動を行う上で自分の公式のようにしているもののように思われます。このタイトルは一方で神秘的で、詩的な部分があるタイトルなんですが、また一方で大変シンプルなもので、何かに対して大変忠実であると同時に変貌する、変貌する中で忠実であるといった二つの意味があるというふうに思います。今観ていただいた映画のベースにあるのは、何か大きなことではなくて、小さな作業の積み重ねであるように思います。
 ゴダールというのは、誰かから何かを盗むというのが大変上手な作家で、このフレーズはブレッソンのものではなくて、ゴダール自身のものになっているように思うのですが、そのゴダールのなにか香りのようなものがこの映画には流れているように思います。ジャンヌ・バリバールはこのゴダールに、彼の声を入れて欲しいと頼んで、ゴダールが彼女にカセットを送ったので、ここで「何も変えてはならない」というフレーズをゴダール自身が言っているのを聞く事が出来るわけです。このゴダールという映画監督は私が考えるに、(ポップとかロックとかという)音楽というジャンルについて、大変中身のある仕事をした唯一の映画作家であるというふうに考えます。それは『ワン・プラス・ワン』と『右側に気をつけろ』ですが。

司会:これも散々される質問だと思うのですが、なぜ今回、ジャンヌ・バリバールさんを映画にしようと思われたのですか?

ペドロ・コスタ監督:まぁ、いい考えかなと思ったので。(会場:笑い)ちょっと長くなりそうな話ですが、短めに頑張ってみます。
 まず第一に、ジャンヌ・バリバールというのは、私が、現代活躍している女優さんの中で大変好きな女優さんだからです。私とジャンヌ・バリバールは2003年にマルセイユの映画祭で知り合いました。二人ともその映画祭の審査員だったわけです。彼女が審査委員長でした。一週間、二人でたくさんの映画を観たわけですが、残念ながら観た映画自身はそれほど面白くなかった、はっきり言って大変つまらなかったので、だいたい途中で出てしまって二人でカフェに行ってしまった、ということです。いま丁度、ジャンヌ・バリバールさんからSMSが入ってきて…、「バカなこと、あまり言わないでね」というリクエストが入っています。(会場:笑い)
 この2003年というのは、ジャンヌ・バリバールさんにとってちょっと特別な年で、彼女自身が、自分のフランス映画における活動について色々と疑問を感じて、ちょっと居心地が悪いような、そういった時期だったわけです。そのような時期だったので、なおさら私自身のちょっと普通の映画作りとは違った映画制作のやり方に大変興味を持ったというわけです。丁度その2003年に、ジャンヌ・バリバールさんは自分で作曲をして最初のレコードを出したわけです。現在に至るまで、ジャンヌ・バリバールはまず演劇、それから音楽、自分自身が歌うこと、というのが優先順位の高いもので、映画というのはなるべく選んで、抑えた活動をと考えているそうです。
 この映画を一緒に作るという考えはすぐに生まれてきた考えではなくて、まず、ジャンヌ・バリバールと一緒に仕事がしたいという欲求があったのです。それまで自分自身の映画作りというのは、自分の国であるポルトガルで、ポルトガル語で、しかもその特別なスラム地区というところで行なうものだったので、そうした映画作りの世界にどうやってジャンヌ・バリバールを入れることができるのかという問題があって、なかなかその答えが見つからなかったわけです。
 そのようなわけで、まず最初にあったのはジャンヌ・バリバールと一緒に仕事がしたいという相互の欲望だったわけで、どのようにやるのかはそれから見つけていったのですが、ここで鍵となったのが、二人の共通の友人で、私の映画の音響であり、ジャンヌ・バリバールさんが出た映画でも同じように音響を担当していたフィリップ・モレルという友人が、私たち二人を、ぜひ一緒に仕事をするべきだと勧めてくれたわけです。そのようなわけで、この映画はちょっと一種のアマチュア映画というか、日曜大工のような日曜映画という感じで始まったわけで、週末になるとフィリップ・モレルと一緒にジャンヌ・バリバールを訪ねて、ちょっとずつ撮っていって、2004年に撮影を開始して出来上がったのが2009年、丁度一年前、カンヌ映画祭の直前でした。
 このように少しずつ撮っていったんですが、様々な土地にジャンヌ・バリバールと音楽家たちと一緒に旅をして撮影をしたわけで、撮影場所は、リスボン、パリ、ブルターニュ、東京、ベルギーなど色々と行きました。オペラのシーンもありましたが、あれはエクス・アン・プロヴァンスのオペラ・フェスティバルで撮影したものです。ご覧いただいたように、コンサート、あるいは練習風景など様々な場面を撮りました。最終的には80時間分のカセットが出来上がり、私の家にそれらがずっとあったわけですが、その間に、もちろん自分自身の映画も制作していたので、なかなかこの映画を完成させることができなかったのです。しかしある時、二人の共通の友人で、この映画の誕生に大きな役割を果たしたフィリップ・モレルが亡くなるということがあって、これ以上もう撮影を続けることは止めて、編集に入ってこの映画を完成させようということになりました。最終的に出来上がった作品は、フィリップ・モレルに捧げられています。

(協力:映画美学校、松本正道、阿部洋地、馬渕愛、石川宗孝)