2)映画を見よう、作ろう、集まろう 新しいドキュメンタリーを発見する雲之南紀録影像展(YUNFEST)の実践
郭浄(グオ・ジン):雲南は四方を山で囲まれた非常に山地の多いところです。比較的首都から遠いものですから、文化的に比べると遅れていると思います。文化的に進んでいないということは翻って、非常に豊かな文化を含んでいるのだといえると思います。地理上でいいますと、ニワトリを思い浮かべてください。ニワトリの鶏冠の部分が中国の東北地方で、雲南がニワトリのお尻、尾っぽの部分です。そんな感じです。西の方はチベットに面し、南の下の方は東南アジアに面し、そしてまた一方は中国の内陸部に面しています。様々な地域を結ぶ架け橋のような役割をしていますので、南から東南アジア方面、西のチベット方面、北の文化と色々なものが交わってきた非常に重要な場所です。ですから雲南の昆明でYUNFESTが立ち上がったということは全く不思議なことではありません。その具体的なYUNFESTの運営状況等につきましては私の隣に座っているおふたりからこれから具体的に紹介していただきます。
楊昆(ヤン・クン):雲南は文化的にも地理的にもそういう位置づけと、また海抜が非常に高いという理由もありまして、非常に人々の生活のリズムがゆったりしております。例えば東京の人々というのは、非常に生活のリズムが早いですけれど、それに比べて比較的ゆっくりとしていて、かたつむりのようなリズムです。やはりゆっくりとしているということは悪いことではありません。いいことです。何か物事を行うときにゆったりと考えることができます。
YUNFESTの立ち上げのきっかけは、1999年に我々は雲南大学でビジュアル人類学を勉強していたわけですが、12人いた同級生のなかでよくいろんな映画を一緒に見ていた男子学生がいて、四人組と言われていましたが、何かおもしろいことをしたいねと酒を飲みながら語り合っていました。東南アジア映像研究室の資料室にある作品をみんなに見せてはどうかと考えたわけです。それから何人かで観る会を行っているうちに、映画を撮ってみたらどうだろうかという話も出ました。自分たちの生活に密着したこと、そして自分たちが住んでいる都市についての作品にしようということで、グループを作ることになりました。
先ほど張亜璇からもお話がありましたように、我々のような愛好家の組織というのは雲南だけではなく、他の地方にもあったわけです。そして雲南にあるほかのサークルの人たちと交流していくうちに、2002年頃雲南で映画祭をやろうという話に行き着きました。どうせやるのならば、雲南のドキュメンタリー映画に興味のある世界中の人たちにも力を合わせて連絡をして、映画祭を立ち上げようという話になったわけです。2004年に山形国際ドキュメンタリー映画祭の藤岡朝子さんが昆明にいらっしゃった時に、Documentary Boxに我々の活動を紹介してくれたことはとても重要なことでした。その次にもっと具体的なことに関しては易思成に譲ります。
易思成(イー・スチャン):第1回を立ち上げる段階で世界のドキュメンタリー映画に関する様々な潮流などは、既に中国に充分、紹介されていたわけです。多くの若者がカメラを手にして撮るようになったこと、これはドキュメンタリーに向いていく大きな流れでした。ドキュメンタリーを撮るということは、劇映画に比べて比較的便利で、自分たちの生活と密着していたからだと思います。若者たちの手によって様々な作品が生み出されていたという状況が、映画祭を立ち上げる上でいい影響をもたらしてくれました。通常では観ることができない映画を上映することができるようになりました。
YUNFESTの作品選定の状況、そして色々な部門とその内容についてお話したいと思います。まず、このYUNFESTは第1回が2003年、そして次が2005年、今年の2007年と過去3回行われております。第1回、これは我々にとっては今までにやったことがないことを試すという非常に重要な意味がある映画祭であったわけですし、中国の現代の新しいドキュメンタリー映画を紹介するという他ではない機会でした。この時、第1回に上映した作品はビジュアル人類学に関わる作品が多く上映され、回顧部門ではこれまで観る機会のなかった60年代に撮られたドキュメンタリー作品を上映しました。そのほか、人類学関係の作品以外に多く上映されたのは、現代の新しいドキュメンタリー作品でした。我々のYUNFEST立ち上げの意図としましては、中国で作られたものを外国に紹介したいということと、また海外の作品を中国の制作者たちに観てもらいたいという意図があったわけです。第1回はまだ充分には実現されませんでしたが。
作品募集はWEBサイト上や各マスコミから、全国のドキュメンタリーの制作者たちに参加を呼びかけ、非常に皆さんからいい反響を寄せてもらいました。これまで全く接触することができなかった有名な監督や作品に我々は出会うことができ、遠方からの参加者と友人になることができました。彼等は皆非常に真心をこめて我々の作品を一生懸命観て、愛してくださったわけです。その評価が私たちの励みとなり、次へと結びつきました。第2回のYUNFESTは組織としてとても落ち着いた組織となったわけです。第2回は5つの部門がありました。まず1つ目がコンペティション部門、2つ目がヤングフォーラム部門、3つ目は回顧部門です。回顧部門におきましては雲南出身の楊光海さんの作品、そして日本の優れたドキュメンタリストである小川紳介監督、土本典昭監督の作品を上映しました。4つ目は特別招待作品、5つ目はコミュニティ映像部門です。この部門は中国各地、雲南の色々な団体、NGOの団体、地域社会の人たち、村人たち、ほとんどの人がアマチュアの方で、例えば文化の部門で働いている人たちなどアマチュアの人たちが制作した作品をこの部門で紹介しました。
郭浄:コミュニティ映像部門はスタイルも様々でドキュメンタリー映像だけではなく、例えば写真もありましたし、アニメーションもあったわけです。そしてまた非常に短いショートフィルムというものもありました。しかしこれらの作品がドキュメンタリーを生み出す運動の大きな力となり、各地の農村地区における映像運動へと向かっていったわけです。
易思成:今日ここでお話するテーマは新しい中国のドキュメンタリー作品ということなので、YUNFESTにおけるコンペティション部門の作品選定の基準というものをお話したいと思います。新ドキュメンタリーといいます、この新という新しいという意味はどのあたりにあるのかというと、新しさの定義はどのようなものかというのをまずきちんと明らかにお話しておかなければなりません。
我々の個人的な考えですけれど、定義といたしましては、この新しさ、新という意味は中国の現状と深く結びついたものであるということです。いわゆる現代社会の現実ということと深く結びついていなければならないという考えです。それぞれの社会階層、そして我々の精神的なものと深く結びついているということです。例えば大きな社会の現状に目を向けたものとしては三峡ダムの建設に関わるもの、それからもっと狭い範囲のものと致しましては、パーソナル・ドキュメンタリーというような分野で、個人のことについて深く取り組んでいった作品、あるいは歴史を取り扱ったもの、そういうものです。大きな中央のマスコミの主流が取り扱うような形のドキュメンタリー作品は説教的な教条主義的なものになるのかもしれません。ですから、我々が意図するところというのは、当局的マスコミ的な報道の色彩を帯びたドキュメンタリーではなく、インディペンデントの意識をもった作品を選ぶということに主眼を置いたわけです。
やはりこの新ドキュメンタリーの誕生の背景といたしましては、作り手たちがカメラを手にして、自分の眼で見た社会の現実をきちんと見つめ、真実をそこに映し出したいということでありました。我々が新ドキュメンタリーという範囲の中で選ぼうとしたのは、できるだけ客観的に真実を冷静に映し出したものを選ぶというとことを主眼に置きました。まとめの意見が盛り込まれていたり、ナレーションでもって自分の意図したように作った番組ではなく、社会の真実を客観的にきちんと映し出した作品であること、それが選定の基準であったわけです。
郭浄:それまで中国のドキュメンタリーといのは神の目で作られた作品であったというわけです。
易思成:テーマからしても、題材からしても、様々なものが現れてきたわけですが、どんどん新しい作家たちが現れてくると、スタイルも手法も非常に豊かなものになってきたわけです。そういうような作品を撮る作家たちを、我々が励まし、このYUNFESTで力をつけていくことによって中国国内における新ドキュメンタリーの作り手たちをさらに新しい方向へ進めていく力となったわけです。