『Before the Flood』共同監督・鄢雨(イェン・ユィ)質疑応答記録

PICT1964.JPG7月7日、東京大学東アジア・リベラルアーツ・イニシアティブ(EALAI)の講義で北京より来日した鄢雨(イェン・ユィ)監督のマスコミ試写での質疑応答の様子です。飛行機の到着が少し遅れて、ぎりぎり駆けつけての質疑応答にもかかわらず、山形と変わらずエネルギッシュに話す姿は健在でした。

司会:藤岡朝子 通訳:樋口裕子


鄢雨:今日はこんなに長い作品なのに観てくださって、どうもありがとうございました。最後まで観ていただいて、とても嬉しく思っております。

司会:この作品を撮るきっかけと製作期間を教えてください。

鄢雨:この撮影は今から4年前のことです、2001年の年初から始めました。撮影に1年間、編集に2年間かかりました。2004年の7、8月にようやく完成しました。あの時撮影したところはもう過去のものです。そこにいた人々もあった建物もいまはもう、すべてありません。全部水の底に沈んでしまいました。

司会:映画に出てくる奉節(フォンジエ)というところにご縁があったと聞いたのですが。

鄢雨:まず、奉節はわたしの故郷にごく近いところです。ドキュメンタリーを撮る時に言葉の壁というのが大きくあります。中国はとても大きいので、その土地土地の言葉になれていないと、本当の意味でそこの社会に踏み込んでいくことができません。自minの言葉が通じるということは大きく作用しました。現在の中国の大変化のなか、まさにいま自minの故郷に激しい変化が起こっているのを見て、黙って見ていることはできませんでした。ですから、これを記録しようと思ったのです。
 重慶は長江に面した町です。1949年、50年頃すでに、三峡ダムを作ろうという計画はあったわけです。今日のような形ではありませんが、そこにダムを作る計画はありました。重慶のあたりというのは内陸地で、上海やそのothersの土地と比べて、ひじょうに貧困層の多い場所です。それが50年間、ダムを建設する動きがないまま、貧困層が発展にむかって踏み出すことはできずに、庶民は貧しいままに留まっていました。2001年にひさびさに故郷に帰ってみたら、土地の人々はまだ同じような状態に置かれていました。ですので、この状態をちゃんと記録しておかなければならないと思ったわけです。

司会:私も山形映画祭の後の2005年の秋に奉節に行ってきました。ちょうどその場所で賈樟柯(ジャ・ジャンクー)監督が劇映画の撮影をしていたのです。その現場では『Before the Flood』の両監督たちが監督補をしていましたね。エキストラや現場のスタッフを現地の人々と組むというのが賈樟柯のスタイルなので、彼らとコミュニケーションをとるのに、やはり、重慶の言葉やことを知っているのがいいということで、賈樟柯監督が抜擢したと聞きました。
 奉節では新しい町が古い町からバスで10min、15minくらい離れているところに作られていて、とても大きい町でした。1年間滞在されていたなか、毎日いろんな場所でさまざまな物語が起こっていたと聞きました。あえてホテルの経営者の向(コウ)さんや教会の話などを、この作品の中心に据えたという、主題というかメインの登場人物の据え方を教えていただけますか?

鄢雨:実は前からこの地域でテレビドキュメンタリーは撮っていたわけです。テレビの仕事をしていくなかで、現地の人々の生活習慣とかいろいろな直面している問題とかをレポートするようになりました。様々な調査の段階でいろいろな人々に会いまして、一生懸命探しまわったのではなくて、自然と出会っていった人たちを撮影しようと思ったわけです。ジャ・ジャンクーがなぜ私たちに手伝ってほしいと言ったかというと、私たちは現地の者ですから、言葉の壁以外にも、説明しにくい、現地の人たち同士の言葉ではない通いあう気持ちや習慣があるわけで、現地の人たちに信頼してもらって、きちんと関係を作って深めていって、作品作りができるようになったのです。
 以前はテレビ局で仕事をしていたこともあり、テレビ局の番組として関心があるテーマと自minが撮りたいところに開きがあることに気づきました。テレビ局側は往々にして三峡地区の風光明媚な風景ですとか、数々の史跡に興味を持って追うばかりで、この土地に住む貧しい人の暮らしに目を向けることはなく、このように軽視されている土地の人々の暮しぶりというのを、自minたちはしっかりと捉えておくべきだとおもったのです。そうすることでそこに住む人たちの何らかの手助けになるのではと思ったのです。

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司会:製作現場のエピソードなど教えていただけませんか? 電気がなくなっていくなかで、どうやって撮影環境を整えていったのかなど。

鄢雨:技術的には撮影の最中に電気がなくなるとかはありませんでした。それは一挙に電気が止められるとかそういったことはなかったからです。移転は3段階で行われていきました。河に近いところから始まり、坂のうえのほうへと行われていったのです。上のほうに新しい町が建設され、そちらに移動していくのですが、最後にジャ・ジャンクーが去年撮影していたところ、一番高い地域にあるところ、そこの移転が今年終わりました。3つの段階で行われたので、そういった電力不足の大きな危機はなかったのですが、映画のなかでろうそくを灯しているところがありましたけど、その時は電気が止まることを知らされていなかったので、とても恐ろしい思いをしました。このような経験が自minの人生に大きな影響をこれからも与えるとその時思いました。

司会;ふたりっきりで撮影に行ったのですか?

鄢雨:これは撮影に入る前の準備から撮影など、ほぼふたりだけで仕上げました。プロデュースや翻訳の方に関わっていただきましたが、ほぼふたりだけで作った作品です。ふたりで共同監督をするスタイルというのはとてもいいと思いました。最近ドキュメンタリーの作品を撮ろうとしている監督でひとりでやろうとしている人たちは思わぬことが起き、立ち止まってしまう人も多いようですが、私たちはふたりでできたので、経験的にも内容的にもより豊かなものになったと思います。

質問1:中国国内では上映されたのですか? 北京とか上海とか?

鄢雨:いや、ありません。これは本当にインディペンデント作品なので、このような作品をかけてくれる映画館はないのです。残念に思うのは、中国国内の人たちに見てもらう機会がないことです。海外の映画祭に参加できて、自minたちの経験としてはよかったのですが、中国の人たちに見てもらえないことをなおさら残念に思いました。この改革開放のなかでどのような事件が起き、どのようなことが発生しているかを見てほしいのですが、まだ国内での上映活動は難しい状況にあるのです。でも、もっと長期的に考えています。作品の舞台の奉節はもう移転が終わり、こことは別のところの人々をいま追っています。そういった別の視点から違う対象を撮った作品をまとめて、国内の人たちに見てもらえればと思っています。
 この作品を撮る前にはドキュメンタリー映画を撮る経験はありませんでした。日本の小川紳介監督の作品に触発され、特に「三里塚」シリーズを見てひじょうに大きな影響を受け、作品作りをしました。

司会:小川監督の『映画を穫る』が翻訳され台湾で出版されていて、それが中国でも読まれているようです。

質問2:国内の影響はあまりなかったということですが、賞を受賞したことで、国外での影響はあったのですか? たとえば、次作の資金調達ができたとか、どこかで配給されるとか。

司会:この作品は去年、ベルリン、香港、パリのシネマ・ドゥ・レール、山形と世界のドキュメンタリーの有名な映画祭で賞を受賞しています。

鄢雨:ドキュメンタリーを作って、どのように配給をするかということに、私たちは経験もなく、プロデューサーもいないので、監督だけの立場で海外からの資金を集めて次の作品を撮ることはできていません。ぜひ、いいプロデューサーと出会って、作品づくりに没頭できたらなと思っています。
 映画を撮るということはとてもお金のかかることです。このようなドキュメンタリーができたのも、デジタルVideoカメラの存在があってこそです。othersの機材もなんとか自minたちで手に入る状態だったのでできました。中国ではインディペンデントの作品の製作配給のシステムが成立しにくく、撮った後どうするのかというのはやりにくいのですが、これからもインディペンデントで撮り続けていくつもりですし、状況はよくなると思っています。

司会:映画祭の賞金やヨーロッパでのテレビ放映権が売れたという話も聞いていますので、それらを次回の資金にあてたりというのもあるようです。

鄢雨:たしかに海外の映画祭で獲得した賞金は重要です。私も李一凡も作品を1本ずつ撮り始めています。そういう賞金をもとにしています。作品の質をあげようとすると、監督ひとりで撮り歩くのではなくて、きちんと録音、撮影、監督と3人で組んでやっていけたらと思っています。これまでの賞金はそういった機材を調達するのに大変助かっています。

PICT1965.JPG司会:明日は秋葉原で買い物をしたいということですよね。

鄢雨:そうそう。

質問3:143minという時間の長さについてお聞きしたいと思います。もう少し短くするという選択肢もあったと思いますが。

鄢雨:当時は143minでもまだまだ足りないと思っていました。しかし、何度も見ているうちにもう少し短くした方がいいかもと思ってきたのです。アルテというフランスのテレビ局が買ってくれて、その時に100minまで切りました。この作品は147時間というあまりにも長い時間撮っていたので、編集が非常に大変でした。カメラは1台でふたりで撮っていました。

質問4:カメラマンはおひとりなんですか? 何人もちらばって撮っているような臨場感がひじょうにあるのですが。1台とは思えませんでした。

鄢雨:当時はこういう人たちに関心を向けて撮っている人たちはいませんでしたし、一緒にやる人もothersにいませんでした。私たちはそれぞれ1日5、6箇所歩き回ってふたりだけで撮ったのです。

質問5:みなさんケンカばっかりしていますが、これは気性なのですか? それともやはり問題が起こっていて・・・

鄢雨:みなさん日本の方は、Chineseというと上海で話される比較的おとなしめな言葉を聞き慣れているのではないかと思いますが、私たち四川の人間が話す言葉は声も大きく、あれは怒っているのではなく、言いたいことを言い合って、わだかまりなく話し合いを終えるという四川人の気性と関係がありますね。

司会:では、最後のひとつ、李一凡監督と鄢雨監督のそれぞれ現在取りかかっていることを教えてください。

鄢雨:李一凡はこの作品にもでていた教会の人たちを追っています。町に住んでいる人たちではなく、村に住んでいる人たちのその後を撮っています。私は魚を運んでいた荷役労働者の姿を追っています。彼らがどうして農村から都市部に出稼ぎに出てこなければいけなかったのかということを撮っています。1年間はかかると思います。中国は農業大国で農村部の人口が多いのですが、その土地がいかに荒れているかということを、荷役労働者が都市部に流入することとからみあわせて撮る計画です。李一凡は教会の人たちを撮ることで、信仰と人間の姿をいうのを撮ろうということです。

司会:どうも、ありがとうございました。

7月7日映画美学校にて
協力:東京大学東アジア・リベラルアーツ・イニシアティブ(EALAI)
Special thanks to:橋浦太一(Video撮影)

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Co-presented by Yamagata International Documentary Film Festival Organizing Committee, Athenee Francais Cultural Center, The Film School of Tokyo, Polepole Higashinakano

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